去年は2月にトリノ冬季オリンピックがあり、6月にドイツでのサッカー・ワールドカップがあり、来年は北京オリンピックの年で、今年はそれらの間に挟まれた谷間の年。スポーツの話題はちょっとお休みで、プロ野球やJリーグや大相撲といったルーティン・イベント以外には、8月に大阪で開催される「IAAF世界陸上2007大阪」が騒がれる程度かな……などと思っていたら、とんでもない。
3月に東京で開催された世界フィギュアスケート選手権で、安藤美姫と浅田真央が1、2位を独占。男子の高橋大輔も日本人として初の2位となり、大いに盛りあがった。
そしてさらに、個人的に大きな衝撃を受けたのは、同時期にメルボルンで開催された世界水泳選手権だった。
といっても北島康介の(ライバルのハンセンが欠場しての)金メダルではない。シンクロナイズド・スイミングでの日本選手の活躍でもない。
同じシンクロでも、ソロに出場して優勝したフランスのヴィルジニー・デデュー選手の見事な演技! この素晴らしさには圧倒された。
彼女の演技のテーマは「マリア・カラスの生涯」。バックの音楽にはフランス革命での詩人と恋人の悲劇をオペラにしたジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』から、マリア・カラスの歌うアリア「亡くなった母」を用い(この音楽はエイズをテーマにした映画『フィラデルフィア』でも使われた)、53歳のときパリのアパートで早世した不世出の大ソプラノ歌手の不幸な生涯を、水の中で演じきった。
その表現、顔の表情、身体の動きは、シンクロにありがちなロボットかサイボーグかと思えるような機械的なものでなく、人間としての存在感、女性の人生の悲しみに満ちた、まさに驚嘆すべき美しさに満ちた芸術的なものだった。
ここまでアーティスティックなスポーツを見せてくれたのは、かつて冬季五輪二連覇(84年サライェボ大会、88年カルガリー大会)を果たしたフィギュア・スケートのカタリナ・ヴィット(東独=当時)くらいなものだろう。
さらに驚かされたのは、このデデューが一度は引退を表明し、1年半以上も競技生活から離れていたにもかかわらず、復帰を表明して再び女王の座に輝いたことだ。
彼女は、2002年のワールドカップ・シンクロ・ソロで優勝。そして03年(バルセロナ)、05年(モントリオール)の世界水泳で二連覇を達成。その両大会で5人の審査員全員が、芸術点で10点満点をつけるという前人未到の偉業を残し、26歳で引退を表明。
大学で建築デザインの勉強に励んだが、彼女に変わって世界一の座に就いたロシアのナタリア・イシェンコの演技を見て「彼女の演技は考えるシンクロではない」と批判。
「技術的には高度だが、新しい芸術的な要素が何もない。私の考えるシンクロはアートだが、彼女のはそうではない」と堂々と言ってのけ、「自分の考える最高のシンクロを実際に見せたい」と復帰。そして再び芸術点で満点を獲得し、優勝したのだった。
スポーツ界で「復帰」を果たすスポーツマンは少なくない。
かつて世界ヘビー級王座に三度返り咲いたモハメド・アリは、二度の引退表明を覆して復帰した。今シーズン中日ドラゴンズで開幕とともに猛打を爆発させた中村紀洋も、「復帰組」の一人と言えるだろう。
プロ野球にはカムバック賞というタイトルがあり、小久保(04年巨人)や前田(02年広島)が受賞している。が、セ・リーグは昨年も一昨年も該当者なし。パ・リーグは02年以来5年連続該当者なしが続き、しかもこの表彰制度ができた74年以来の33年間で、わずか6人の選手しか受賞していない。
それだけ「カムバック(復帰)」という行為には、困難が伴うということだろう。
世界で最も活躍したスポーツ選手に与えられるローレウス・スポーツ賞というタイトルがあり(今年も4月2日に発表され、男子はテニスのフェデラーが3年連続受賞、女子は棒高跳びのイシンバエワ、チームはイタリア代表サッカー・チーム)、そのなかにもカムバック賞の部門がある(今年は女子テニスのセリーナ・ウィリアムズが受賞)。
来年は、その発表を待たなくても、カムバック賞はデデューで決まりといえるだろうが、彼女の「復帰」は単なる現役選手に「カムバック」しただけではない。世界一の座への復帰であり、それには当然、世界のトップレベルの進化を上回る技術的向上、表現的洗練が必要となる。
しかもその難事を、1年半以上のブランクを乗り越えて行わなければならなかったはずだ。
先に書いたフィギュアのカタリナ・ヴィットも、いったんプロに転向したあと、アマチュアに復帰してオリンピック=94年リレハンメル大会に出場したが、8位に終わった(それでも、その芸術性の高さで観客を魅了したが)。
では、「カムバック」するだけでも極めて困難なことといえるのに、デデューには、なぜそれ以上のこと(世界一の座に就くこと)ができたのか?
もちろん彼女はその名(Virginie Dediux=神々の乙女)の通り、身体的にも精神的にも天性の資質に恵まれていたに違いない。何しろ正面切って他の選手の批判を口にできるほどの意志の強さと、鼻栓をせずにシンクロの演技ができるほどの肉体の持ち主なのだから。
しかし、今回のメルボルンでの演技を通じて強く感じたのは、彼女の思索の深さであり、その思索を支える教養の深さである。
パリのアパートの一室で一人寂しく亡くなったマリア・カラスという大歌手を、フランス人として演じるのに、『アンドレア・シェニエ』ほどふさわしいオペラ(音楽)はない。「母は亡くなり」ほどふさわしいアリア(メロディと歌詞)は、ほかにない。
強靱な意志と肉体だけでは、これほど美しく、これほど悲しく、これほど切なく、これほど感動的で芸術的で、見る者に強い衝撃を与える演技には至らなかったはずだ。
フランス革命、マリア・カラスという女性、そしてシンクロナイズド・スイミングという芸術的なスポーツに対して、彼女は、あきらかに一つの「思想」を持っていた。
ただ復帰を果たしたい、もう一度花を咲かせたい、というだけでなく、自分が表現したいもの、自分が主張したいことを彼女は持っていた。
そのためなら、「復帰」という困難な作業も克服できたに違いない。いや、次の世代の台頭を押しのけて(若者たちのチャンスを奪って)「復帰」するには、それくらいの「思想」がなければならないはずだ。
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