スポーツ映画の最高傑作、市川崑監督の『東京オリンピック』の冒頭には、次のようなメッセージが掲げられている。
《オリンピックとは人類の持っている夢のあらわれである》
とはいえ今回の北京五輪は、開幕前から、「夢のあらわれ」と言うにはあまりにも「厳しい現実」の嵐に見舞われた。
チベット騒乱、四川大地震、大気汚染、さらに食に対する不安…等々、競技の始まる前からこれほどメディアを騒がせたオリンピックは、過去に存在しなかった。
その「厳しい現実」は、オリンピックの限界を、あるいは無力さや虚しさを、冷厳に示すもののようにも思われた。
しかし、いったん競技が始まれば、世界のトップアスリートたちの活躍に、世界中の耳目が集まることだろう。
地球上に暮らすあらゆる人々が、輝かしい勝利に歓声をあげ、あるいは無念の敗北に涙を流し、国家や民族や宗教の壁を越えて握手をし、肩と肩を抱き合い、感動の渦に巻き込まれるに違いない。
スポーツとは不思議なものである。そして、素晴らしいものである。
古代ギリシアのオリンポスの祭典(古代オリンピック)では、競技によってオリンポスの山々に棲む神々を称えるなかで、ヘレネス(ギリシア人)が一つに結ばれた。21世紀の科学テクノロジーの社会に暮らす我々現代人は、宇宙に浮かぶ人工衛星を用い、地球を覆う電波のネットワークによって一つに結ばれる。
しかし、それによって目にするもの、耳にするものは、昔も今も変わらぬ躍動する身体であり、輝く身体である。同じ身体を共有するあらゆる人類が、自分たちと同じ身体の輝きに魅せられ、心を動かされ、一つに結ばれる。
そのことを、市川崑さんは、「夢のあらわれ」と表現したのだ。
《人類は4年ごとに夢を見る。この創られた平和を、夢で終わらせていいのであろうか》
名作『東京オリンピック』の末尾に現れるこの言葉の意味は重い。
おそらく人類は、「厳しい現実」と「夢のあらわれ(創られた平和)」の狭間を何度も何度も繰り返し往復するなかで、前へ前へと進んでゆくに違いない。
間もなく北京に、地球上のあらゆる地域から多くの人々が集まる。そして、躍動する身体による競技を開始する。
それがたとえ「創られた平和」であれ、一時でも「平和」が「創られる」意義は小さくないはずだ。
《世界の平和、人類の平和とは、こういうものであろうと、胸の熱くなる瞬間であります》
東京オリンピックの閉会式を中継をしたNHKのアナウンサーは、感動で喉をつまらせながら、そのような言葉を口にした。
誰が勝ち、誰が負け、誰が笑い、誰が泣いても、最後に誰もがそんな言葉を思わず口にする――北京オリンピックも、そういう大会になってほしいと願わずにはいられない。 |