「これからは、体育ではなく、学校スポーツとして、そのあり方を考えるべきです。体育として強制されて行うのではなく、学校スポーツとして、自主的に、自発的に、楽しむスポーツのあり方を考えなければなりません・・・」
何年か前に、あるシンポジウムのパネル・ディスカッションに参加したとき、そんな発言を口にした先生(大学教授)がいた。その先生は聴衆に向かって話したあと、当然わたしも同意してくれるもの、という思いが現れている笑顔で、隣に座っていたわたしの顔を覗き込まれた。そして、続けて司会者に発言を求められたわたしは、しばしのあいだ絶句してしまったのである。
たしかにわたしは、執筆活動のなかで、日本のスポーツが「学校体育」として発展したために生じた矛盾を何度も指摘してきた。体育とスポーツは異なる種類のものである、それを混同してはいけない、教育としての体育から文化としてのスポーツへの転換が必要・・・といったことを書き続けてきた。
しかし、「学校スポーツ」という考えには、首肯しきれない思いがある。考え方は理解できるが、どうも納得できない面がある。
子供たちは、「心」(精神)や「頭脳」(知識)だけでなく、「身体」も、丈夫で、健康で、健全な発育を促すために、鍛える必要がある。そのことには、誰も疑問を挟む余地はないだろう。そして、そのためには、「自主的に、自発的に」スポーツを楽しむだけでなく、先生に命じられて行う身体運動も必要なのではないか。
だからといって、鉄棒の逆上がりや跳び箱等をさせることが有効なのかどうかは疑問である。また、現在の体育教育で欠けているスポーツの「知的な要素」(スポーツやルールの歴史、スポーツとは何か、といった考察等)は、今後充実される必要があるように思える。が、「体育教育」が必要不可欠であることに変わりはなく、それは「学校スポーツ」と呼ぶものではないように思えるのだ。
改めていうまでもなく、学校とは基本的に教育の場であり、スポーツ(遊び)の場ではない。日本の社会は、公共施設としてのスポーツの場が存在しない(不足した)まま、スポーツが学校体育の一部として発展した。そのため、「自主的」で「自発的」な「遊び」であるというスポーツの本来的意義が曲げられたのは事実である。
しかし、だからといって、「学校体育」を「学校スポーツ」に転換するというのは、本来、地域社会で取り組むべき問題を学校に押しつけることになるのではないか。それは、学校本来の役割を逸脱した行為であり、地域のスポーツ・クラブ等の発展を妨げることにもなりかねないのではないか。
課外活動としての部活動も、本来ならば、地域社会のクラブが担うべき行為であり、高校野球や高校サッカーを見ればわかるように、その役割を学校が担うと、どうしても学校(私学)の宣伝という色が濃くなってしまう。また、子供たちにバーンアウトを強いたり、六三三制のなかで一貫したスポーツ指導が行えなくなるといった悪影響も生じる。
地域社会のクラブ制度が、まだまだ誕生していない日本の社会では、学校という場に期待を寄せたくなる気持ちはわかる。が、豊かな未来社会を築くためには、体育は学校で、スポーツは地域社会で、という棲み分けこそ必要なのではないだろうか。 |