またしても……と言うべきだろうか。九州の私立高校の運動部(サッカー部)で、監督とコーチによる「暴力(暴行)事件」が発覚してしまった。
今回の事件は監督がテレビ出演や記者会見で虚偽の発言を繰り返したり、過去の事件をふくむ常態化していた暴力の隠蔽を謀ったり、さらに生徒たちに事実と異なる証言を強要したり……唖然とするほどの許しがたい悪質な事件に発展した。
が、なぜ高等学校という教育の場でのスポーツ部で、暴力による「指導」がなくならないのだろうか?
指導者が「殴る」「蹴る」などの暴力を用いて強圧的に生徒を追い込み、自分の命令に従わせようとすれば、生徒は暴力への恐怖から逃れようと練習や試合に頑張る……。そんなことで生徒の技量が向上しないことは明白だ。
が、それでも暴力をふるってしまう指導者がなくならないのは、指導者が言葉を持っていないからであり、言葉で説明できないからだろう。そして言葉で説明できないということは、スポーツの技術や戦術を理解していないからというほかない。
指導に暴力を用いる指導者は、暴力を用いるから指導者失格という以前に、指導するスポーツに対する理解度がきわめて低いという意味で、スポーツの指導者失格というほかないのだ。
さらに今回暴力事件が発覚した監督やコーチは、責任を取らされる形で解任された。暴力事件が起きるたびに、そうした「処分」が下される。が、それで一件落着なのだろうか?
間違ったことをした人物に対しては、罰を与える(処分する)だけでなく、更生させる必要があるはずだ。
今シーズンのメジャーリーグのテレビ中継で、日本人選手を揶揄するような英語の発音を行った解説者がいたらしいが、報道によると彼は即座に解説者を馘首されたうえ、人種差別の考え方を改めるプログラムを実行している合宿所に入れられ、訓練を受る義務を課せられることになったという。
そこまで行わなわなければ学校スポーツの非暴力化も実現しないだろう。
もちろん更生プログラムでは、ただ「暴力はいけない」とか、スポーツの理解が足りないことを指摘するだけではなく、スポーツという文化が生まれ育った歴史を教える必要がある。
じつはスポーツとは民主主義社会から生まれた文化(カルチャー)であり、民主主義社会でしか生まれない文化なのだ。
民主主義社会とは、社会を率いる人物(指導者:大統領や首相、知事や市長など)が、暴力(戦争)を用いず、選挙や話し合い(議会)で決められる社会のことだ。
そうして暴力が否定される(無意味になる)社会になると、殴り合いや取っ組み合い、戦争や戦利品の奪い合いは、ボクシングやレスリング(柔道)、射撃やフェンシング(剣道)、フットボール(ボールの奪い合い)などのゲーム(スポーツ)に生まれ変わる。
つまりスポーツとは、暴力を否定した社会(民主主義社会)によって生み出された(そのような社会からしか生み出されない)、暴力を完全に排除したところに初めて成り立つ文化(カルチャー)なのだ。
したがってスポーツの場に少しでも暴力を持ち込む人物は、スポーツにまったくふさわしくない存在として、スポーツの場から排除される必要があるのだ。
このような「スポーツ民主主義(非暴力)誕生説」を、スポーツのすべての指導者に教え、理解させて、はじめてスポーツの場から暴力の排除が可能になるのではないだろうか?
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