「4年に1度のスポーツの祭典が幕を閉じました」とは、ロンドン五輪の閉会式直後、テレビが伝えた言葉だった。が、この言葉に、少々違和感を感じた。
昔(1964年の東京五輪の頃)は、オリンピックを「スポーツの祭典」とは呼ばなかった。「人類の祭典」または「平和の祭典」と呼んだ。その点では昔の表現のほうが正しかったと思う。
国際オリンピック委員会(IOC)は開催都市に「文化プログラム」の実施を義務づけている。
ロンドン大会でも、コンサートやミュージカル、それに美術展やシェイクスピア戯曲の上演などが、オリンピックの一環として数多く上演された。
またIOCは国際オリンピック・アカデミー(IOA)を通じて、スポーツによる一切の差別の解消、相互理解、平和共存などを推進する「オリンピズム」の普及を「オリンピック・ムーヴメント(オリンピック運動)」として実践している。
それらがまったく報道されず、ただ「スポーツの祭典」として、国別メダル獲得競争ばかりが注目されるようでは、クーベルタン男爵も草葉の陰で嘆いているに違いない。
今大会では、参加したすべての国と地域から女性選手が出場。また、南アの両脚義足の陸上選手や、ポーランドの片腕の卓球選手なども参加し、女性や障害者に対する差別解消に成果をあげた。
ならば、2020年の東京五輪招致を目指す我が国も、当然「オリンピズム」の実践に取り組まなければならない。
男性や健常者だけのスポーツ組織は(イギリスと同様)女性や障害者も加えた組織に改編するべきだし、オリンピックは文科省、パラリンピックは厚労省という縦割り行政も即刻解消するべきだ。
そうしてプロ野球や高校野球も女子プロ野球や女子高校野球を含む組織化、その普及に尽力する組織に改革しなければならない(選手は男性だけで、女子はマネージャーという名のお茶汲み……などという組織は、絶対に改められなければならない)。
それがオリンピックの目指す「スポーツと社会の正しいあり方」だと認識するところから五輪招致運動もスタートするべきで、そんな単純なことすら改められないようでは、オリンピックを招致する(オリンピズムを実践する)国として、また都市として、恥ずかしいことと自覚するべきだろう。
隣国のほうが、もっとヒドイじゃないか……などという前に、自国のスポーツ環境を、まず改善したいものだ。 |