「金メダルなんか、いらない!」
いまでは、もう忘れてしまった人が多いかもしれないが、いまから約30年前の1970年代、テレビや新聞や週刊誌といったメディアで、そんな意見を口にする人が少なくなかった。いや、オリンピックで「メダルを獲れ!」という人のほうが少数派だった。
1972年にはミュンヘン・オリンピックでのアラブ・ゲリラによるイスラエル選手人質射殺事件も起き、76年のモントリオール五輪では南アメリカのアパルトヘイト政策に反対するアフリカ諸国がオリンピック出場をボイコット。
80年のモスクワ大会はソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に反対する西側諸国が、アメリカを中心に出場をボイコット。そのとき、オリンピック出場を夢見ていた日本のスポーツマンたちは、涙を流して出場を訴えた。が、日本の「世論」は、彼らに味方しなかった。むしろ涙を流したスポーツマンを「女々しい」と非難したものだった。
そして84年のロサンゼルス五輪は、ソ連を中心とする東側諸国が、モスクワ大会の報復として出場をボイコット。「オリンピックの危機」が叫ばれた。が、このときも、日本の「世論」は、オリンピックに冷たかった。
「金メダルなんか、いらない」という声が主流ともいえる空気のなかで、多くの人々が、スポーツにそれほど大きな関心を払うこともなかった。
そのころ日本では、スポーツがまだまだ軽視され、さらに軽蔑されていたのである。とりわけ、「世論」の形成に力を発揮する知識人――メディアで活躍するジャーナリストやニュース・キャスターは、スポーツを忌み嫌っていた。
もちろんそれには、理由があった。
1960年、日米安保条約改定に反対する数十万人ものデモ隊が国会議事堂と首相官邸を取り囲み、「安保反対」「岸内閣打倒」を叫んだとき、岸信介首相は官邸内で「健全な国民は後楽園球場で巨人阪神戦を見ている」とうそぶいたという。
さらに60年代後半から70年代にかけて、全国各地に大学紛争の嵐が吹き荒れたとき、多くの体育会系学生が大学当局側につき、まるで大学の用心棒のような振る舞いで、警察機動隊とともに、「改革」を叫ぶ学生たちを排除した。
そのうえ当時は、まだ第二次大戦前の日本のスポーツに対する「意識」も、多くの人々の脳裏に色濃く残されていた。
1936年にナチス・ヒットラーがドイツ第三帝国の威信をかけて開催したベルリン・オリンピックでは、「前畑がんばれ」の実況ラジオ中継で有名になった前畑秀子が、日本人女性初の金メダルに輝いた。
が、その快挙に国民が大騒ぎするなかで、日本の軍国主義政府は満州事変を起こし、中国への本格的侵略を開始した。つまり、スポーツは国家によって国民の「目をそらす道具」「不満のガス抜き」として利用され、そんな現象から評論家の大宅壮一は「スポーツは阿片」と称したのだった。
そのような時代の流れのなかで、一瞬だけ日本のスポーツが美しく輝いた瞬間があった。それは、1964年の東京オリンピックだった。
日本にとって、それは敗戦後の国際社会への復帰を名実ともに世界に示す国家イベントだった。が、多くの国民は、世界中から集まった多くの外国人選手の活躍や、16個の金メダルを獲得した日本人選手の活躍に目を見張り、スポーツの素晴らしさに酔いしれた。
しかし「祭り」が終わったあとの「虚しさ」も大きかった。マラソンで銅メダルを獲得した自衛隊体育学校所属の円谷幸吉選手が「もう走れません」という遺書を残して自殺。国家によるスポーツ利用と、それに従うスポーツマン、という構図が多くの人々の脳裏に甦った。
そして東京五輪を頂点に、日本がオリンピックで獲得するメダルの数も、下降線を辿り続けた。それは国家によるエリート・スポーツに対する「特別強化」をやめたからであり、先に書いたようなオリンピックそのものの政治問題も生じ、金メダルなんかどうでもいい・・・、そんなことに税金を使わなくていい・・・、スポーツなんかどうでもいい・・・という意識が、多くの人々(とりわけ知識人)の意識に根強く刻まれたのだった。
そういえば、戦後日本の最大のヒーローといえる力道山が、八百長試合問題で非難されたうえ暴力団員に刺し殺されたことも、もう一人の大ヒーローであるジャイアンツの長嶋茂雄が「社会党が政権を取ったらプロ野球は潰れる」と口にした(とされる)ことも、日本の多くの知識人が、スポーツを心の底で軽蔑し、忌み嫌う大きな要因になったといえよう。
そして1972年の沖縄本土復帰を記念して開催された沖縄国体では、ソフトボール会場に掲げられていた日の丸が、沖縄県民の手によって引きずり降ろされる、という事件も起きた。金メダルを獲得すること(日の丸を掲げること)、あるいは日本のスポーツマンを応援すること(日の丸を振ること)に、敢然と反対する人は少数だったかもしれないが、スポーツとナショナリズムの関係に、どことなくわだかまりを抱き続ける人は、けっして少なくなかったのだ。
そのような日本人のスポーツに対するネガティヴな意識は、いまでは完全に一掃された、といっていいだろう。
そのきっかけとなったのは、ワールドカップ・サッカーであり、過去を知らない新しい世代の行動だった。
1993年のJリーグ誕生とともに爆発したサッカー人気の結果、それまでほとんどの日本人が無視していたサッカー・ワールドカップに注目が集まるようになり、日本代表を応援するサポーターが、何万人、何十万人という単位で日の丸を頬に描き、日の丸の旗を打ち振るようになった。いわば「日の丸」は、過去のネガティヴな「意味」を捨て、サッカーというゲームをより楽しむための記号として認定されるようになったのである。
そして、心の奧には根深い「アンチ・スポーツ」「反ナショナリズム」の意識を持ち続けてきたはずの日本の知識人――テレビのニュース・キャスターやコメンテイターたちも、その新たな波に押されるかのようにしてサッカーの日本代表を応援するようになり、アテネ・オリンピックでの東京五輪をうわまわる金メダルの数に喜び、トリノ冬季五輪での荒川静香やWBCでの日本野球世界一を素直に絶賛するようになった。
こうして振り返ってみると、日本でスポーツという行為が正当に評価されるようになったのは、ほんのつい最近20年弱の出来事だといえる。いや、本当の意味で正当に評価されるようになった、とは、まだいえないかもしれない。
過去の国家によるスポーツ支配にかわるメディアによるスポーツ支配の問題が生じている。最近の世界的スポーツレベルの向上の結果、トップ・アスリートの活躍(金メダルの獲得)が「広い裾野」のうえにしか成り立たなくなり(かつての自衛隊体育学校等でのエリートのみの育成では「高い頂点」を築けなくなり)、多くの人々がスポーツを楽しめる環境の整備や競技人口の増加こそ重要となってきたにもかかわらず、スポーツクラブを所有したり、スポーツイベントを主催するメディアは、トップ・アスリートの活躍ばかりに目を向ける。
それは、テレビの視聴率を獲得したり、新聞の部数を伸ばすための早道だからだろう。が、ひょっとして、それは、メディアが国家に委託された仕事といえるのか、あるいは、メディアが国家にかわる存在になりつつある証左といえるのか・・・。
いずれにしろ、スポーツが「何物」かに利用される社会は、まだまだ幸福な社会とはいえず、スポーツが「何物」にも利用されず自立した社会を築くことが、豊かな社会づくりにつながるはずである。
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