今年の全米テニス選手権女子シングルで2度目の優勝を果たした大坂なおみ選手の発したメッセージは、本当に素晴らしいものだった。
1回戦から決勝までの7試合、警察官などに不当に殺された7人の黒人の名前を一人ずつ記した黒いマスクを順々に着用してコートに登場。
優勝後のインタヴューで、「黒いマスクは、どういうメッセージを伝えたかったのか?」と訊かれると、彼女は、「それよりも、あなたが、このマスクをどう受け止めたのか、ということに興味があります」と答えた。
この見事な返答によって彼女は、「アスリートである前に、一人の黒人としてやらなければならないことをやる」という意思を、見事に示したのだった。
私の読んだ書物によると、アメリカでは南北戦争で黒人奴隷が解放されて以来、低賃金労働者が急激に減少。それを補ったのが囚人たちを利用した強制労働で、一定数の囚人による労働力を確保するため、黒人を軽微な犯罪でも逮捕する悪習が生じ、それに対する反抗と逮捕のせめぎ合いの延長線上で、今も黒人に対する差別と迫害が続いているという。
そんな社会のなかで、大坂なおみ選手の平和的な無言のメッセージは多くの人々の心を掴み、アメリカの数多くのメディアも賞賛した。
が、同じ行為をオリンピックの場で行うことは不可能のようだ。
というのは、オリンピックの会場では、選手が、政治的、宗教的、人種的メッセージを発することが、オリンピック憲章第50条によって禁止されているからだ。
1968年のメキシコ五輪で、陸上200mに優勝したトミー・スミス選手と3位になったジョン・カーロス選手はアメリカ国内での黒人差別に抗議し、表彰台の上でアメリカ国旗に顔を伏せ、黒い手袋をはめた拳を突き上げる抗議行動を行った(2位になったオーストラリアのピーター・ノーマン選手も黒人差別反対のバッジを胸に付けて、表彰台に上がった)。
それに対してアベリー・ブランデージIOC会長(当時)は、この行為を「アメリカ国内の政治的問題」と捉え、「非政治的で国際的な場であるべきオリンピックに反する行為」として、二人の選手のオリンピックの場からの追放を決定したのだ。
今年6月、75歳になったカーロス選手はアメリカ五輪・パラリンピック委員会と連名で、IOCにメキシコ五輪での処分の撤回を求めると同時に、政治的問題をふくむ選手の自由な発言を禁止しているオリンピック憲章第50条のの改正を求める要望書を送付した。
が、IOC(国際オリンピック委員会)は、アメリカで盛りあがっている黒人差別反対運動を受けて、新たに見解を発表。「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命にも価値がある)」という標語の使用や、黒人差別に対する象徴的抗議行動となっている「膝つき行為」なども「五輪憲章違反に当たる」(五輪からの追放の対象となる)と発表したのだ。
すると、カナダの反ドーピング機関でスポーツ選手の教育活動も行っているカナディアン・センター・フォー・エシックス・イン・スポーツ(CCES)という組織が、五輪会場での政治的・宗教的・人種的・人権的活動を禁じる五輪憲章は、国連が「世界人権宣言で認めた基本的人権」を踏みにじるものと断じて修正を求め、「ブラック・ライヴズ・マター」や「膝つき行為」も自由に行うことができるよう求めた。
それに対するIOCの回答はなく、そのようにIOCが昨今の人権問題に対して、きわめて「保守的」な態度を取るのは、再来年(2012年)2月開催予定の北京冬季五輪に反対する声が高まっているからだという。
世界各国にあるウイグル族、チベット族、モンゴル族の人権団体や、香港の人々は、新疆ウイグル自治区やチベット自治区での住民に対する中国政府の弾圧、内モンゴル自治区の小中学校でのモンゴル語から中国語への強制変更、香港での国家安全維持法の施行等に対して抗議の意思を表明。
中国政府の姿勢は、「人種、宗教、政治、性別、その他に基づく、国もしくは個人に対するいかなるかたちの差別も、オリンピックとは相入れない」とする五輪憲章に反しているとして、北京冬季五輪の中止を求める書簡をIOCに送った。
中国政府は、そのような動きこそ「五輪の政治利用」と反駁。IOCは「政治的中立を保つ」とのみ返答した。
戦争が「政治の延長」とするなら、オリンピックの唱える「平和(反戦)運動」も政治的にならざるを得ない面がある。
「差別反対」も同様に、「差別する側の政治」に対して「差別に反対する政治行動」となり、「政治問題」はスポーツ(オリンピック)も無縁ではいられないはずだ。
大坂なおみ選手は、全米女子テニス協会やスポンサーのナイキ社と話し合いを行い、協会とナイキ社の「反黒人差別」への支持を取り付け、黒いマスクの着用に及んだという。
ならばIOCも選手の声に寄り添い、どのような行為ならば認めるのか、また認められないのか、その意思を判然と示すべきだろう。スポーツ選手は、黙ってスポーツをやっていろ、という時代は終わったのだ、
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