2018年冬季オリンピックの開催地が韓国の平昌に決定した。その結果、20年東京五輪招致が困難になった、との声が高まっている。
ならば東京は、無駄な運動をする(カネを使う)よりは立候補を見送ったほうが…という声が出てくるのも、当然と言えば当然だろう。
とはいえ、それはなんとも情けない話というほかない。
いったい何のための五輪招致か!?
一度目の1964年は戦災 (アジア太平洋戦争)からの復興、二度目は東日本大震災からの復興…であれば、東京でなく東北の都市が立候補するべきだろう。
オリンピックには様々な政治的思惑が働くのは事実。とはいえ、その基本にあるのはスポーツ大会。東京五輪招致には、その基本が決定的に欠けている。
前回立候補したときも、「エコ五輪」とうスローガンを掲げたものの、「五輪は国連ではない」と一蹴する委員がいた。
一方リオやマドリッドは、ペレやラウルなどの世界的サッカー選手が招致活動の先陣を切り、国際的耳目を集めると同時に、国内的に彼らの所属していたクラブやリーグの会員(市民)を動かした。
その結果、前回の東京は都民の支持が過半数程度しか集まらなかったが、リオは80%以上、マドリッドも90%近くもの支持を集めた。
リオのヴァスコ・ダ・ガマ、フルミネンセ、ボダフォゴ…、マドリッドのレアルやアトレティコ…といったクラブは、サッカーだけでなくバスケットやバレーボールやハンドボール等のチームを併せ持つ市民参加の総合型スポーツクラブとして機能している。
FC東京もそんなクラブを目指しているのだろうがまだまだ未熟で、東京読売巨人軍は「市民参加総合型」とは無縁の「プロ興行組織」でしかない。
そのため東京の五輪招致は「五輪で日本を元気に」という程度の抽象的な主張しかできず、「税金の無駄遣い反対」の声を説得できないのだ。
五輪招致運動は、たとえ招致に失敗しても、市民のスポーツ環境が整備され、住環境が改善され、スポーツを通した幸福な社会の建設につながる…(それは、最近日本の国会で成立した「スポーツ基本法」の理念の実践でもある)。
五輪招致推進派は、そんな運動の一環としての五輪招致を考えるべきで、そう言う考え方ができないから、招致反対派の「税金の無駄遣い反対!」の声を、説得できないのではないだろうか。 |