東日本大震災は、千年に一度と言われる未曾有の規模で甚大な被害をもたらした。多くの被災者は今なお不自由な避難生活を強いられている。
そんな状況のなか、ヨーロッパのサッカーやアメリカ大リーグなど、世界のスポーツ界から日本と日本国民への激励のメッセージが届いた。
国内のスポーツは選抜高校野球やサッカーのチャリティ・マッチが開催されたが、フィギュアスケート世界選手権東京大会や卓球のアジアカップ横浜大会など多くのイベントが中止。
Jリーグやプロ野球パ・リーグは開幕を延期。セ・リーグの開幕はいったん予定通りとされたが、文科省と選手会の要請や世論の批判を受け、改めて開幕延期とナイターの自粛が決定された。
その間、「スポーツマンはスポーツで日本を元気にする」といった意見が出る一方、「まだその時期ではない」という反論も聞かれ、主催者は判断に苦慮したという。
そもそも「スポーツ」とはラテン語の「デポラターレ」から生まれた言葉で、労働などの日常生活から離れた遊び・レジャー・祭りなどの「非日常的な活動」を意味する。
現代の様々なスポーツも、基本的には「身体エネルギーの非生産的な浪費」に違いなく、人間の衣食住に関わる「日常的行為」とは無縁な「非日常的行為」といえる。
つまり時速140キロを超すスピードボールを投げようが、そのボールをバットで100メートル以上の遠くへ打ち返そうが、はたまた少々大きなボールを足で巧みに扱い、ゴールネットを揺らそうが、それらの行為自体は非生産的で、日常生活のうえでは無意味な行為でしかないのだ。
とはいえ無意味なはずのスポーツが、それを行うスポーツマンの心に充実感や満足感を与え、見る人の心に感動をもたらしたりもする。それは多くの人々が体験的に認める事実で、「人は何故生きるのか?」という命題に対する一つの回答といえなくもない。すなわち、懸命に生きる(懸命にスポーツを行う)ことには充実感や共感という「生きる喜び」が伴うのだ。
もっとも、「本質的に無意味な非日常行為(スポーツ)」が行えるには、「日常生活」の確立していることが前提となる。そこで問題となるのが、「スポーツの形態」だ。
ヨーロッパのサッカーやJリーグ、アメリカのメジャーやマイナーリーグの野球のように、チーム(クラブ)がホームタウンやフランチャイズ都市と強いつながりを持つスポーツは、地域社会の「日常生活」を離れてスポーツが存在することなど考えられない。従って天災などで地域社会がダメージを受けると、クラブやリーグは地域住民と同様、まずはスポーツ活動より地域社会の日常生活を取り戻す活動に取り組むことになる。
そして地域社会の復興と足並みを揃え、ある時点で住民と喜びを共にするスポーツ復活の日を迎えることになる。あるいは日常生活が少々不自由でも、地域住民の支援と要望で、スポーツが一足先に復活することもあるだろう。
しかし地域社会よりも親会社との関係が強い日本のプロ野球は「企業スポーツ」の色合いが濃い。セ・リーグが開幕日に苦慮したのも「日常」が確立しないと「非日常」が成立しないというスポーツの本質と、一日も早く利益をあげたい「企業スポーツ」の論理との挟間で悩んだ結果といえる。
高校野球の場合は問題が異なる。センバツは(夏の甲子園大会も)単なるスポーツイベントではなく、野球を通した教育(体育)の場である。従って震災時と平常時を問わず大会に参加することで、高校生が「本質的に非生産的で無意味なスポーツ(野球)という非日常的な行為を行う意味」すなわち「人生の意義」を少しでも考えてくれれば、大会は教育的価値を果たしたといえるだろう。
一口に「スポーツ」と言っても、地域社会のクラブスポーツ、企業スポーツ、学校スポーツ(体育)等々、その形態によってスポーツの存在意義は大きく異なる。震災でスポーツイベント開催の是非を問うと同時に、スポーツの存在形態を問い直すことも必要だろう。 |