スポーツライターの仕事で繰り返し悩むのは経験論の問題である。
戦前のロサンジェルス・オリンピックにボート競技で出場した青年を主人公にした『オリンポスの果実』(田中英光・作)という青春小説に、つぎのような一節がある。《私はボオトを漕ぐ苦しさについて書こうとは思わない。なぜなら、それは漕いだ者には書かなくてもわかるが、漕いでない者には書いてもわからないからだ》
この言葉が正しいとするなら、アスリートに対するあらゆるインタヴューが無意味なものになってしまう。
ホームランを打った喜びはホームランを打った者にしかわからない・・・。金メダルを取るための苦しさは金メダルに挑戦した者にしか・・・。
この経験論に対してスポーツライターは想像力で対抗するほかない。
が、想像力を駆使するにも、何らかの経験が必要となる。そう思ったわたしは、若い頃(いまから20年くらい前の30代のとき)機会があるごとにいろんな経験をさせてもらった。
世界チャンピオンの具志堅用高さんとジムのリング上でボクシング(の真似事)をさせてもらったときは、上目遣いの目で睨まれただけで震えあがり、わたしのパンチはかすりもしなかった。
現役時代の高見山関に部屋の稽古土俵の上でぶつからせてもらったときは、方向を間違えてコンクリートの壁に激突したのかと思った次の瞬間、目から火花が出て倒れてしまった。
ロッテ・オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の大エース村田兆治投手の練習中に打席に立たせてもらったときは、指がボールをリリースするときのピュッとという音と、ボールが風を切るヒューンという音に驚き、ど真ん中のストライクに打席から飛び退いた。
経験というには情けないものばかりだが、それらのミニ体験は、スポーツを見たり考えたりするときの貴重な糧となっている。
しかし、ミニ体験すら不可能なことも少なくない。
たとえばF1。200キロを超すスピードでコーナーを回るマシンに一度同乗してみたいと思うが、残念ながらまだ実現しない(一度、あるF1のクラブに申し込んでみたが、「やめなさい。死ぬよ」といわれた)。そんなときは、やはり経験者に訊くほかない。
佐藤琢磨さんにインタヴューしたときは「顔や身体の半分に熱を感じ、全身の血が遠心力で移動していることがわかります」という言葉を聞いた。女性ドライバーの井原慶子さんは「子宮が偏るのがわかる」といった。
ならば、ガソリンもタンクのなかで一方の壁に押しつけられ、ステアリングを握る腕の骨もタイヤを支えるリアもきしみ・・・ということに気づくと、モータースポーツの迫力と過酷さに改めて驚嘆するほかない。
自分に体験がなく、勝手な想像の間違いに気づいて驚くこともある。
たとえば熱気球。地上から見ていると、空中に漂っている気球のゴンドラに乗っている人は、爽やかな風を受けて気持ちよさそうに見える。
が、そのときゴンドラの乗組員は、まったく風を感じることなく、無風状態のなかにいるという。そんな話を経験者から聞いて仰天したことがある。
しかし、そうなのだ。風に吹かれ、風とともに、風の速さで移動しているのだから、風は感じない。肌に感じるものは何もない。ただ山や大地が広い視界のなかで横の方向へ静かにゆっくりと移動する。スゴイ!
こういう「驚き」をインタヴューや経験者の話から味わうことができると、経験するだけでなく想像することもスポーツの魅力だと納得できるのである。 |