今、アメリカ・オレゴン州ユージンで、7月24日まで世界陸上競技選手権大会が開催されている。
マスクを着けていない大観衆を見ると、コロナは大丈夫? と心配にもなるが、青空の下で躍動する美しい肉体を見ると、その力強さにウイルスも退散か?
と思えるほどだ。
もちろんその感覚には何の根拠もない。
が、考えてみれば陸上競技の「速さ」を競う「競走」も、現代社会では何の意味もない行為とも言える。
100m走でもマラソンでも、早く目的地に到着したいなら自動車に乗れば良いわけで、何も人間が走る必要はない。いや、自動車の存在しなかった時代でも、人間は「速さ」に、さほどの価値は見出さなかった。
古代ギリシアのオリンポスの祭典(古代オリンピック)では、スタジオン走という約192メートルの距離に立てられた杭の間を走る(一直線に走ったり何往復かする)競走があった。
が、それは一緒に走る走者を少々押したり掴んだり、足で引っかけたりしてもよかったらしい。
というのは、ある場所から別の場所へ行く場合、そこには狼や山賊がいたり、敵がいるかもしれず、古代人は「速い」だけの価値など認めず、「強さ」を求めたのだ。
そのため古代オリンピック最高の勇者はレスリングの勝者とされた(ボクシングは血を流すので、神事であるオリンポスの祭典での評価は低かったらしい)。
事情は日本でも同じ。急ぎの用事があるときは馬や早駕籠に乗ればよく、人間が速く走れることは、使用人以外さほど自慢にならなかった。
その事情が一変したのは産業革命での蒸気機関車の誕生だった。
煙を吐いて走る機関車を見た人々は、ウチの使用人が走るほうが速い! 自分の飼ってる馬のほうが速く走る! と何度も挑戦したという。
が、疲れを知らず走り続ける蒸気機関車は、間もなく人間や馬が太刀打ちできない圧倒的な「速さ」を発揮するようになり、さらに自動車が生まれ、電気機関車が生まれ、飛行機、ジェット機、ロケットが生まれ、高速コンピュータが生まれ、現代人は「速さ」そのものに、「強さ」以上の価値を認めるようになったのだった。
1896年アテネで始まった近代オリンピックでも、最初のうちはレスリングのヘビー級チャンピオンが最高の競技者と讃えられたが、20世紀も少し経つと、最も速い100m走の勝者と、最も長い距離を速く走るマラソンの勝者が、最高の競技者として讃えられるようになった。
その「速さこそbP(ナンバーワン)」という価値観が現在も続いているのだが、少々疑問なのは、テクノロジーの高度に発達した今日こそ人間が走る必要などないはずなのに、なぜ人々は人間の走る姿を讃え続けるのだろう?
それは選手の走る姿を見ればわかる。頭や肩が左右に揺れたりせず、最も合理的な身体のカタチを一定に保って美しく走る選手が最も速く走る結果を残す。
つまりランナーは、自らの身体をどれだけ見事に制御(コントロール)できるかを競っているのだ。
その事情は競走だけでなく、投擲競技やジャンプ競技でも同じだ。
ともすれば自分の意のままには動かない自分の身体を、最も美しいフォルムに制御できる選手がチャンピオンと讃えられる。それが「21世紀の陸上競技」と言えそうで、今に世界記録より「美しさ」のほうが高い価値だと誰もが認める時代が来るかもしれない……?
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