わたしは、F1グランプリをテレビで見るたびに、このボーヴォワールの言葉を思いだす。
<ひとは女に生まれない。女になるのだ。人間のメスが社会のなかでとっている形態は、どんな生理的・心理的・経済的宿命がこれをさだめているのでもない。文明の全体が雄と虚勢体との中間産物をつくりあげ、それに女性という名をつけているだけのことである>(『第二の性』より/生島遼一・訳/新潮文庫)
オス社会である人間社会が、「女」という形態を押しつけている、とボーヴォワールは主張する。なるほどそうかもしれない。が、この主張には、じつに女性的な独断に満ちた偏見がふくまれているのではないか、とも思えるのである。この女性解放論者は、完璧な女性論を展開した。が、男の気持ちは何もわかっちゃいない・・・。
たしかに、男性中心の<文明>はこれまで、女という存在を抑圧しつづけてきた。社会的には<女性>という<中間産物>の立場を押しつけ、<女>としては、ただ子孫を残すための器官としてしか、その存在を認めてこなかった。
しかし、女は、いつの時代でもつねに、生まれながらにして女ではあった。月に一度の赤い血によって、妊娠によって、出産によって、そのことを確認することができた。「自分はまぎれもなく女である」と。
では、男とは、いったい何なのか。何によって、みずからを男であると確認することができるのか。
射精は、それ自体では何物も生みだし得ず、虚無的な落魄(らくはく)感すらただよわせる。肉体は、鍛えなければ男の姿になり得ない。膂力(りょりょく)も精神力も、そして権力も、自然が男ゆえに恵むものではない。すべてが後天的なものであり、獲得するものである。
ならば、ボーヴォワールの言葉は次のように書きかえるほうが正しいのではあるまいか。<女は生まれながらにして女である。が、男は男に生まれない。男になるのだ>
フランスで、初めてじっさいにこの目でF1グランプリを見たとき、この自分で書きかえた言葉の正しさを確認した。
みはるかす地平線の彼方まで広がる緑豊かなブルゴーニュの丘陵地帯に、地を這う(はう)巨大な大蛇のようなサーキットがうねる。そこでは、近代テクノロジーの粋(すい)を結集した空力特性を備えたマシンが、太陽の光を浴びて無駄のない曲線のラインをきらきらと輝かせていた。そのボディ・カウルを開けると、なかから人間の腸(はらわた)のような複雑怪奇な形状をした大きなエンジンが出現する。そして男たちは、そんなエロチックなマシンを相手に、格闘しつづけていた。
メカニック担当の男たちは、コックピットの作業場で、まるで宝石職人がダイヤモンドをとりあつかうような繊細な手つきで、ステンレスの箱から点火プラグを一個一個ピンセットでつまみだし、それをエンジンにとりつける。そしてアポロとソユーズの宇宙でのドッキングさながらの慎重さで、エンジンの回転軸をクラッチ・ボックスに結合する。油で手を真っ黒に汚し、息を詰めての作業に取り組む男たちの額には、汗がにじみ、したたり落ちる。
そのすぐ横で、とつぜん猛烈な爆裂音が響き、エンジン・テストがはじまった。
ウワーン、ウワーン、ウワーン、ウワーン・・・。鼓膜を突き破るほどの強烈な高音の波動と、下腹までもふるわせる猛烈な低音の振動に、全身が包まれる。大音響は無音状態を生みだす。エンジン音以外にまったく聞こえるもののない空間に立ちつくすと、否が応でも意識が覚醒され、聴覚以外の五感が鋭さを増すことを自覚する。
ウワーン、ウワーン、ウワーン、ウワーン・・・。研ぎ澄まされた感覚は甘酸っぱい油煙の香りと大音響に酔い、思わず落涙を促すほどの理屈のない感動に激しく心が揺さぶられる。エグゾースト・ノ−トは、ブルックナーの交響楽のように全宇宙をふるわせて響く。
その大音響のまっただなかで、メカニックは冷静に自己をコントロールし、コンピュータのディスプレイをにらみつづける。あるいはドライバーやスパナをにぎりしめて立ちつくし、一本一本のボルトやナットの状態を注視する。
愛しさにあふれる手つきでマシンのボディを磨きつづける男もいる。万全にウォームアップしたタイヤの横に立ち、自分の出番を待つ男もいる。誰もが男として生きている瞬間を誇らしげに味わっているようだった。
男たちの“生の瞬間”は、予選のタイム・トライアルから本番のレースの開始に向けて、刻一刻とヴォルテージを高める。そして決戦が始まる直前になると、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『ナブッコ』の合唱曲がサーキットに流れた。
飛べ、我が思いよ、金色の翼に乗って・・・
そして、やすらげ、我が故郷の丘の上で・・・
いざ、スタート。26台のマシンが地球上で最大の爆音を轟かせ、疾走を開始する。一直線のコースを弾丸のように駈けぬけたマシンの群れは、油煙の香りを撒き散らしながら急ブレーキをかけ、アスファルトの大蛇の背中に吸い付くようにして、右へ、左へ、コーナーを走りぬける。
わたしは、狭いコック・ピット(運転席)に身を沈め、ステアリングを握りしめた両腕に力をこめ、脚の踵で大地を感じながら背中や腰に次つぎと襲いかかるG(遠心力)と懸命に闘っている英雄の肉体に思いを馳せる。あるいは、悲鳴をあげてきしむタイヤ、弓なりにしなるシャーシー、熱を発するブレーキ、がっちりと絡み合って回転するクラッチ、真っ暗闇の金属箱のなかで踊るように波打つオイルやガソリン、火炎を吐き出し爆発しながらピストン運動をつづけるエンジン・・・などを頭のなかに思い描く。
さらに、ボディ・カウルのすぐ内側にまるで脳細胞の神経叢(しんけいそう)のようにはりめぐらされた電気系統の配線と、その無数の細い電線のなかを青白い閃光を放ちながら走りぬける電気信号のイメージを思い浮かべる。そうして、ふたたび、みずからの肉体と神経と精神のすべてをマシンと一体化させ、激しい振動のなかで必死になって制御を試み、時速300キロで疾駆する男の存在に思いを馳せる。その瞬間のパイロットこそ、まぎれもない男であった。
もちろん、タイヤ交換や不慮の事故に備えて待機するメカニックたちも、彼らを見つめる観客も、すべての男たちが、その瞬間、男になっていた。そして、そんな男たちに思いを寄せ、祈りを捧げる女たちがいた。
レースが終わると、それまでの爆裂音が嘘だったのかと思えるほどの深い静寂が訪れた。それはまさに男のセックスそのものだった。残されたものは虚しいまでの空白感、虚脱感、落魄感・・・。そして、たったひとりの勝者と圧倒的多数の敗者、脱落者。しかし勝者といえども、明日の勝利の保証はない。ひとは、失敗と敗北を重ねることによってのみ、男となるのかもしれない。そもそも男とは、本質的に実りのない存在なのかもしれない。
しかし、F1サーカスは、果てしなくつづく。残された空白感が深ければ深いほど、それを生みだした瞬間の充実感も深い、ということだけを信じて・・・。
速さを競う以上に、まるでわざと失敗と敗北を重ねるためにつくられたかと思えるサーキットと、それを承知で限界に挑む人間機械系(マン・マシーン・システム)の物体。それは、男が男になる瞬間を得るための最高の遊び道具と言うほかない。 |