「人生50年」といわれたのは、はるか昔。今では50代は働き盛り。60代は第二の人生の出発点・・・ともいわれている。それはともかく、50年も生きれば、世の中の移り変わりが、はっきりと体感できる。
畳の上で卓袱台を囲んでいた夕食はテーブルに椅子が主流となり、ガチャガチャと音をたててまわしていた白黒テレビのチャンネルは、リモコン薄型液晶かプラズマになった・・・。そういえば「いま、室町時代が終わろうとしている」と看破した人がいるが、なるほど、畳や障子や家の建て方、お茶や食事などの日常生活、祭や芸能・・・等々、室町時代に端を発した日本人の生活様式は、戦後半世紀余りで、過去にないドラスティックな変貌を遂げようとしている。
その点スポーツは、そもそも明治初期の文明開化のときに欧米から伝播したものだから、それほど長いタイムスパンで変化を語ることはできない・・・と思っていたら、よくよく考えてみれば、そうでもないことに気づいた。日本のスポーツの世界にも、やはり室町時代以来・・・とか、あるいは戦国時代以来・・・というような長い歴史のうえで語るほかない「変化」が見られるのである。
半世紀余り前、裸足に下着のパンツとランニングで走る子供が多かった小学校の運動会は、カラフルなスポーツ・シューズとトレーニング・ウェアの見本市のようになった。写真機を胸に下げた父兄などちらほらとしかいなかったのが、父兄の席にはビデオカメラがずらりと並ぶようになった。
そういった変化は、スポーツが日本人に取り入れられて以来の新しい変化といえるが、次のような変化は、かなり根が深い。
昔は、クラスのなかに何人か、「走れない子供」がいた。足が遅いとか、運動神経が鈍いというのではない。「走り方」を知らない子供がいたのだ。
足を大きく前に出せない。太股が上にあがらず、膝から下を後方に蹴るだけ。それに、腕が振れない。右足と左腕、左足と右腕、という組み合わせで前に出すことができない。だから、そういう子供は、行進もできなかった。右足を前に出すと右手、左足を前に出すときは左手が、同時に前へ出た。
そんな子供が何とか走ろうとすると、両腕が前後にではなく、時計の振り子のように左右に振れた。あるいは、両腕を一方向の後方へ揃えて伸ばしたまま走った(たとえば左腕を左後方へ伸ばし、右腕を胸の前で折りたたんで同じく左後方へ伸ばそうとして、半身になった身体を前傾させて走った)。
半世紀余り前には、そのような子供が少数とはいえ存在したことを(50歳以上の方なら)憶えているに違いない。
彼ら、と彼女らは、「純粋」ともいえる「過去の日本人」の「血」を受け継いだ子供たちだったといえる。
農耕民族である日本人は、田畑を耕す鍬や鋤を使うとき、右手と右足、左手と左足を、同時に前方へ出す。それが最も力の入る形であり、そのような手足の動きは「なんば」と呼ばれた(何故そのように呼ばれるようになったかについては諸説があるが、井戸から水をくむときなどに使う滑車が「南蛮渡来」のもので、その滑車を使うときの動作から名付けられた、ともいわれている)。
また農民は、日常的に「走る」ことが、ほとんどなかった。「走る」ケースがしばしば生じた武士や、「走る」ことを職業にしていた飛脚も、刀や文箱を両手で押さえて走らなければならず、両腕を振ることはなかった。
というわけで、西洋的な「走り方」が文明開化の明治初期にスポーツとして伝播したのだが、その「走り方」(あるいは歩き方)は、主として軍隊に取り入れられた。それは、右手と左足、左手と右足という組み合わせで前方に出す走り方や歩き方を身につけなければ、閲兵式での行進や匍匐前進(戦闘中に腹這いになって進むこと)ができないためで、兵隊と陸上競技選手には「スポーツ的な走り方」が、なかなか浸透しなかったのだ。
そして私(54歳)が子供のころは、まだその「文明」が国民のすべてに浸透するには至っておらず、「走れない子供」が存在した、というわけだ。
私の3人の子供が幼稚園や小学校に通っていた頃(約10数年前)、何度も運動会を見に行ったが、走るのが下手な(遅い)子供は見かけたが、「走れない子供」はついに発見できなかった。それは、スポーツとしての常識的な走り方が、学校での指導やテレビのスポーツ競技の映像(情報)等によって浸透すると同時に、日本人の農耕民族特有の身体行動文化の伝承が途絶えたからだろう。
私の生活空間は都会に分類される場所だが、はたして田舎(農村)では、どうだろう?「走れない子供」いや、テレビの情報等にも汚染されていない「農耕民族の伝統を血のなかに引き継いだ子供」は、まだ存在しているだろうか?
最近の陸上競技界では、太股をあまり高くあげず、腕の振りも小さくして、膝から下の足を後ろに蹴ってその回転を速くする、という昔ながらの「日本的な走り方」が「なんば走法」という称する新しい走り方として注目され、短距離(100m・200m)の末續慎吾選手や400mハードルの為末大選手などの世界的活躍につながっている。
ひょっとして、過去の伝統を受け継いだ子供のほうが、将来オリンピックで活躍を・・・などと考えるのは単なる空想だろうか・・・?
もうひとつ、スポーツ界に生起した長い過去の日本の歴史を覆すような事態は、サッカー人気の隆盛である。
明治初期の文明開化で欧米のスポーツが一気に日本へと流れ込んだとき、図抜けて広範な人気を獲得したのは、ベースボールだった。その理由は様々に考えられる。が、最も興味深いのは「日本では内戦(市民戦争)が早い時期に幕を閉じた」という説である。
1600年の関ヶ原を最後に、一般市民(農民)が駆りだされて闘う戦争は、ほぼ幕を閉じた。その約半世紀前、種子島に鉄砲が伝来し、闘いの様相は、武士が名乗りをあげて一対一で刀や槍で闘う「個人戦」から、鉄砲隊が一斉に発砲する「集団戦(団体戦)」へと大転換したのだが、多くの一般農民はその闘いをほんのわずかしか体験することなく、徳川280年間もの長い平和な時代へと突入した。
その「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」の時代に語り継がれたのは、「やあやあ我こそは・・・」と大音声をあげて名乗りをあげ、一対一で対決した源平の闘いであり、信玄謙信の川中島の一騎打ちであり、武蔵小次郎の対決だった。そんな「伝統」(闘いの美学)が受け継がれているところへ、様々なスポーツが流れ込んできたのだ。
そのとき、多くの日本人が、集団で闘うサッカーやラグビーのようなスポーツよりも、「やあやあ我こそは・・・」と投手と打者が一対一で対峙するベースボールに魅力を感じたのは、当然のことといえるだろう。
そして野球は、ほんのつい最近まで日本で人気ナンバーワンのスポーツとして君臨した。が、1993年にJリーグが誕生して以来、若い世代を中心に、いや、上の世代も巻き込んで、サッカー人気が急上昇した。
それは、組織のなかの個人が「御恩」と「奉公」で組織に貢献するスタイルから、組織全体を「チーム(プロジェクト)」として動かすスタイルへ、日本人の活動様式が歴史的にコペルニクス的一大転換を起こした事態、といえるかもしれない。あるいは、個人が組織としてまとまるための団体行動ではなく、個人が個性を生かす結果生まれるチームプレイというもの存在に、日本人が歴史的に初めて目覚めた事件といえるかもしれない。
いずれにしろ、本当のチームプレイというものに多くの人々が目覚めてまだ10数年。W杯ドイツ大会の結果よりも、未来に目を向けようではないか。 |