「ぶひ、ぶひひ、ぶひひい〜ん」
「ぶひひひひ〜ん」
「ぶひひひ。おい、ディープ。おまえ、フランスで一服盛られたんだってな」
「ぶぶぶ。僕にもよくわからないんだけど、フランスに渡ってすぐに、ちょっと体調を崩したんだ。そのときにフランス人の獣医さんが来て、鼻にでっかいプラスチックの筒みたいなものを当てられて、息を大きく吸い込んだら喉から胸がスウーッとした。それが何かの薬だったみたいなんだけど……」
「そいつは、ちょいとばかり不注意だったな。自業自得ってわけか……」
「ぶひいい――!?」
「何をそんなに驚いてるんだ?」
「だって、僕はフランスへ連れて行かれて走らされただけで、禁止薬物のことなんて何も知らなかったんだよ。なのに自業自得だなんて……」
「だから、そういう甘っちょろけた態度がダメだっていうんだ」
「でも、テレビでこの事件について話してた人たちだって、ディープは悪くない、まわりにいた馬主や調教師や厩務員の人間の責任だって、みんな口を揃えていってくれてたよ」
「だからどうだってんだ?」
「人間のオリンピックでのドーピングだって、選手に勝たせてやろうと思ったコーチが、本人の知らないうちにやることも多いらしいし……」
「俺たちゃ、スポーツホースだぜ。そんな馬鹿なスポーツマンと一緒にされて悔しくないのか? 選手に勝たせてやろうと思うコーチだって、ドーピングが見つからないまま選手が勝てば自分の手柄じゃないか。そして見つかりゃ、傷つくのは選手だ。周りにいた人間が責任をとってくれるか? おまえさんが薬物検査に引っかかって3着の記録も取り消されたとなったら、その結果は歴史から消せないんだぜ。おまえさんが引退して種馬になったあとも、おまえさんが死んだあとも、ずっと語り継がれるんだぜ」
「ぶひぶひぶひ……」
「だったら、自分のことは自分で管理しなきゃ。馬に責任はないなんて、そんな甘い言葉に甘えちゃいかん」
「…………」
「おまけにフランス人の獣医がやったことといっても、日本人は外国人との交渉が下手だからな。どうせ、まともにフランス語を話せる奴もいなかったに違いない。だったら、日本人が黙って見ていたとしても、おまえがサラブレッドのプライドにかけて、断固として首を横に振らなきゃいけなかったんだ。俺のいってる意味、わかるか?」
「ぶひひ〜ん」
「俺たちサラブレッドは、ただ走るためだけに生まれてきたんだぜ。しかも、人間によって人工的につくられた。そのくらいのことは、おまえも親父さんから聞いてるだろ。これは、永遠に語り継がれるべき、俺たちの宿業の歴史だ」
「ああ。聞かされたよ。僕たちサラブレッドは、血統をたどれば18世紀末の3頭のアラブ種の馬に行きつく。だから、僕たちは誰もが兄弟だって」
「そのとおりだ。俺たちは、速く走る、という目的だけで人間につくりだされたんだ。細い脚に逞しい筋肉。そんな限界ぎりぎりの馬体を持つ種類だけが残されて、200年後におまえのような素晴らしい馬が誕生したってわけだ」
「ぶひぶひ!」
「だけど、おまえさんは、いったい、なんで走ってるんだ?」
「ぶひ?」
「自分が、なんで走るのかって、考えたことあるか?」
「ぶぶぶ……」
「縞馬(シマウマ)の連中の生き方を知ってるか? 奴らは人間のいうことを絶対にきかない。手綱を付けようとしても断固として拒否する。人間が背中にまたがろうとすれば、振り落とそうとする。鞭でも入れられようものなら、振り落としたうえに踏みつけ、蹴りあげる。そうして人間をあきらめさせて、野生のまま生き続けてる。それも見事な馬の生き方だ」
「ぶひぶひぶひ」
「でも、俺たちの先祖は違った。人間に喜ばれることに生き甲斐を見いだしたんだ。だから、走れといわれれば走る。鞭を入れられても怒らず、その怒りを、走るエネルギーにする。そうして、走れなくなったら静かに最期のときを受け入れる。それもまた立派な生き方だと俺は思ってる」
「ぶひひひひ」
「考えてみりゃ、人間なんて身勝手なもんさ。無責任なもんさ。DNAまで操作して、成績のいい馬はスーパースターともてはやし、自分たちの金儲けに使う。成績の悪い馬は缶詰だ。俺たちゃ蹄をちょいと故障しただけで、立っていることさえできなくなるんだからな。おまえは、いいよ。立派な成績を残して騒がれて……。だけど、プライドだけは捨てちゃいけない。何でもかんでも人間のやることを受け入れていいわけじゃないはずだ。プライドを持って走る。そのためには、断固として拒否しなきゃいけない場合もあるってことだよ」
「ぶひひ〜ん」
「ところで、おまえさん、さっきの俺の質問に、まだ答えてないぜ。おまえさんは、何のために走るんだ? 人間に喜ばれたい。それだけか? そうじゃないだろう……」
「ぶぶぶ……」
「ま、難しい問題だけどな。俺は、いつか人間も気づいてくれると思って走り続けてきたんだ」
「ぶぶぶ……気づいてくれるって?」
「俺たちの生き方に、だよ。抵抗せず、素直に従い、戦いにも駆り出され、競走にも駆り出され、人間を助け、人間とともに歩んできた俺たちの生き方こそ、ほんとうに美しく尊いものだってことに、いつか人間も気づいてくれるはず。そんな俺たちの生き方から何かを学んでくれるはず。そして自分の人生にも活かしてくれるはず……。俺はそう思って走り続けた。だから、クスリだ何だって、走ること以外で騒がれるようなことだけは、絶対に赦せないんだ。それだけは、俺たち馬のプライドにかけて阻止してほしかったんだ」
「ぶひひ。ぶひめんなさい」
「いや、あやまらなくてもいいんだよ。仕方ない。お前が悪いんじゃない。俺は、もう走れないけど、おまえは、まだ若い。これからも、毅然とした態度で、馬鹿な人間どもに教えてやるんだ。俺たち馬の生き方のほうが美しく尊いってことを……」
「ぶひ!」
「今回は、話にオチもないし、えらくしんみりしちまったじゃないか。馬鹿な人間の行いはパロディにして嗤い飛ばすこともできるけど、俺たち純粋な馬のことは、嗤(わら)えないってことだな。ぶひひひひひひ〜ん」
「ぶひひひひひひ〜ん」 |