今年9月下旬から始まる臨時国会で、超党派のスポーツ議員連盟は、国民祝日である「体育の日」を「スポーツの日」と変更する法案を提出する(註・衆院の解散と総選挙のために、予定は少々遅れたようです)。それに伴い、「日本体育協会」の名前も「日本スポーツ協会」に、「国民体育大会」も「国民スポーツ大会」に変更される予定だ。
それらが単なる名称の変更だけでなく、スポーツに対する日本人の考え方の変更だということは、過去3回の本欄の連載をお読みの方なら、気づいていただけることだろう。
青少年の身体を鍛えるための「体育」は、もちろん大切な「身体教育」として、今後も小中高校などでは、きちんと実施されなければならない。が、「スポーツ」という概念は、ただ「体育」だけにとどまるものではなく、「知育」も「徳育」も含む、人類の創りあげてきた素晴らしい「文化」である、ということを前回までの本欄で、解説させていただいた。
しかもスポーツという文化を世界に先駆けて誕生させ、大きく発展させた地域が、オリンピアの祭典を千年以上にもわたって開催し続けた古代ギリシアと、産業革命後の近代イギリスである、ということに気づくと、スポーツという文化が、特定の政治体制と結びついた場所でしか生まれないことがわかる。
古代ギリシアと近代イギリスに共通する政治体制ーーそれは民主主義制度。スポーツは、民主制の社会でしか誕生しないのだ。
そのことを世界で初めて指摘したのは、ユダヤ系ドイツ人(国籍はイギリス)で哲学者、社会学者、歴史学者のノルベルト・エリアス(1897〜1990)だった。
エリアスが「民主制とスポーツの関係」を唱えるまで、スポーツは、産業が発達し、社会が豊かになり、人々に余暇が生まれたところで誕生した、と考えられていた。古代ギリシアはオリーブ油と葡萄酒の製造で、近代イギリスは産業革命で、それぞれ豊かになり、人々が余暇を得てスポーツを生んだ、というわけだ。が、古代ギリシアと何度も戦火を交えたペルシア帝国(アケメネス朝ペルシア)のほうが、産業も発達し、豊かな社会を築いていた。また、元、明、清といった中華帝国や、トルコのオスマン帝国のほうが、近代イギリスよりもGDP(国内総生産)で優り、社会は豊かだった。でも、それらの国々はスポーツという文化を生むことはなかった。なぜなら、民主主義制度が存在しなかったからだ。
民主主義制度は、選挙や話し合い(議会)で社会のリーダーを決める。民主制が生まれる前までは、闘いや戦争などの暴力で支配者の地位(王座など)を勝ち取っていた。つまり民主制というのは暴力の否定が大前提で、そのような非暴力の社会が生まれると、多くの暴力が否定され、ボクシングやレスリング、相手を殺してでもボールを奪い合ったフットボールなど、暴力的な闘いが、すべて相手を傷つけないゲームに変化した。
フェンシングや射撃といった他人を殺傷する技術も、非暴力が原則の民主制の下ではゲーム化してスポーツとなり、戦場での殺傷行為だった柔術や剣術も、明治天皇が「万機公論に決すべし(すべては話し合いで決めよう」と五箇条の御誓文で宣言した後、柔道や剣道という技術を競い合う非暴力のゲーム、すなわちスポーツとなったのだ。
19世紀のフランスに生まれた教育学者のピエール・ド・クーベルタン男爵が、戦争のない平和な世界の到来を望み、古代ギリシアのオリンピアの祭典を近代に復活させたのは、非暴力の象徴としてのスポーツを利用した反戦運動にほかならなかったのだ。
「体育の日」が「スポーツの日」に変わるのをきっかけに、スポーツには、そこまでの意味が含まれていることも知っておきたいですね。 |