(対談の前に)日本のスポーツは明治の文明開化によって幕を開けた。その文明開化を推進したのは、明治天皇を頂点とする日本の皇室だった。
自ら髷を切り、衣冠束帯を脱ぎ、西洋式軍服に身を包んだ明治天皇を筆頭に、日本の皇族は、テニス、ゴルフ、乗馬、ベースボール、フットボール等々の西洋文明を積極的に取り入れ、自らラケットやクラブを握り、馬に跨り、ボールを追われた。
「時代の最先端」を走る伝統はその後も引き継がれ、多くのプリンスたちが海外に留学するなか、「本場のスポーツ」に接せられた。
そこで培われた「スポーツ観」は、のちに「体育」へと変貌した日本のスポーツとは異なり、また昨今隆盛の「アメリカン・スポーツ」とも異なる「ヨーロッパ本流のスポーツ観」を引き継ぐものといえよう。
そのような伝統を受け継がれた「スポーツの宮様」であり「ヒゲの殿下」と親しまれたェ仁親王殿下は、札幌冬季オリンピックでは組織委員の一人として現場最前線で働かれ、(社)日本職業スキー教師協会をはじめ、数多くのスポーツ団体の総裁、会長等々の重責をこなしておられる。
この連載対談企画の最終回として、殿下に日本スポーツ界の問題点の総まとめをお願いした。
――以前、財団法人日本レクリエーション協会とスポーツ・レクリエーション協会の総裁をなされておられたときに、会議にお招きいただきまして…。
ェ仁親王 そうそう。そうでしたね。
――そのとき私が驚いたのは、殿下が、両協会を解散してスポーツ専門のシンクタンクの設立を提案なされたことでした。世界中のスポーツ情報を集めて研究する機関の設立を提唱された。
ェ仁親王 私は「スクラップ・アンド・ビルド」という言葉が大好きなんだけれど、あの団体はそうしなければいけないと思いました。せっかく国や県から多額の資金をもらってるんだから、もっと有意義な活動をしなければと思ったんです。
――私も素晴らしい御提案だと思いましたが、結局は事務方の抵抗といいますか、殿下のほうが総裁を辞任されて…。
ェ仁親王 9年間がんばりましたが、ダメでしたね!(苦笑)
――今日は殿下に日本のスポーツ界について語っていただきたく思いますが、その前に、殿下とスポーツの出会いからお伺いしたいのですが。
ェ仁親王 もともと私は、スポーツとはまったく逆の立場の人間でね、幼稚園小学校のころは虚弱体質だった。父親譲りの喘息持ちでもあって、幼稚園のときから登園拒否の問題児(笑)。
母親付きの老女がなんとか僕を幼稚園に行かせようとして、当時珍しかったココアを飲ませてくれると、やっと重い腰をあげる。それくらい人見知りが激しく、体も弱くて休んでばっかりいた。
学習院の初等科でも、運動会の日が365日のなかで一番嫌だった。走るのは遅い。力は弱い。長距離走もダメ。姉や弟は健康優良児で運動会でも大活躍する優等生だったけど、僕は身体を動かすことが全然ダメで、心配した母が、当時、全日本スキー連盟の会長をしていた小川勝次さんに相談した。
すると「自然のなかに放り込むしか手はないから、夏は山、冬はスキーです」とアドヴァイスされ、自ら隊長になって我々三人(姉弟をふくむ)を率い、夏は上高地から涸沢を経て穂高に登り、冬は志賀高原の丸池でスキーというメニューを実践する事になりました。
それが初等科四年のとき。そうして中等科の二年の頃から、ようやく虚弱体質を抜け出し、山とスキーも本格化していきました。
――最初は、虚弱体質さえ治れば、という程度のきっかけだったのですね。
ェ仁親王 そうです。だから、スポーツ嫌いの人の気持ちも良くわかるし、障害者にスキー指導を頼まれた時、「為せば成る」と言って29年間教えてきました。スポーツ万能だった姉と弟は今はタダの人ですから不思議なものです。
――山とスキー以外のスポーツは?
ェ仁親王 中等科ではサッカーのフルバックでした。母が、スポーツをやるなら女子のやらないものをやりなさいと、いま思えば面白いことをいいだして。
たぶん虚弱体質を徹底的に治そうと思ったのでしょうが、それで当時は女子のやらなかったサッカー部に入った。しかしながら、虚弱体質を抜け出した子供にとってはかなりハードで、鈍足でしたからフルバックしかやらせてもらえなかった。そして、高校からは応援団。
――応援団ですか……。
ェ仁親王 現在も全日本応援団連盟という団体をサポートしています。けど、まあ、応援団というのは極道の集まりみたいな世界で(笑)、僕も高校時代から酒や煙草でブラックリストに載せられて……。
――それ、書いても大丈夫なんですか?
ェ仁親王 大丈夫。事実だから(笑)。高校時代から髭も生やしていたしね。
――いまと同じようにですか?
ェ仁親王 そう。私は顔が優しいから、髭でも生やさないと応援団として格好が付かない(笑)。学習院の規則は厳しくて、髪の毛は何分刈り、詰め襟は何センチ、靴、運動靴、鞄まで規則があったけど、髭を伸ばすなとは書いてなかった。まあ、想定してなかったんだろうけど、先生に注意されても、母親に「お願いだから剃ってくれ」といわれても生やし続けて、応援団を一所懸命やりました(笑)。
――両腕をあげたままおろすな、といった体育会系の特訓を?
ェ仁親王 まあ、すさまじいものだったけど、僕が団長のときはカッコ良かったですよ。声も大きいし、髭もあるし(笑)。社会人になってからは友人の結婚式のたびに「フレー、フレー」とエールをやらされました。癌で喉を切ってからは大声が出なくて悔しいけれど。
――応援団というのは、自分がスポーツをやるわけではないですよね。
ェ仁親王 そのとおり。学習院というのは、大正時代から教育大付属(現在の筑波大付属高校)とのスポーツの定期戦が年間最大のイベントで、そのために体育会は学生自治の実行委員会を作って応援団もそのために結成されるんだけれど、みんなサボりたがるわけです。
それで我がクラスの番長を風紀委員長に任命して、僕が団長で、徹底的に練習させて、我々の年は見事に付属をやっつけました。ほかには、ソフトボールもやりましたね。
――ソフトボール?
ェ仁親王 学習院の先生方は、なぜかソフトボールが大変お好きで、教職員がチームを作って放課後に楽しまれていた。それで、さっきいったように僕はブラックリストに載せらていたから、なんとか教師にゴマをすらなきゃと考えて「ソフトボール部を作りたい」といったら、アッという間に許可された(笑)。
僕はキャッチャーで初代キャプテン。それで先生のチームと試合をしました。いまも家のスタッフでソフトボール・チームを作ってます。
――試合も行われてるんですか?
ェ仁親王 二人の娘が学習院の初等科に通っていた頃は先生方と対抗戦をしていましたが、人間というのはずるいもので、娘が卒業してしまうと忙しいことにかこつけてやらなくなったな(笑)。
でも、初代コーチが元ジャイアンツの二塁手の土井正三さんで、彼がブルーウェーブの監督になるときも相談に乗って、「巨人一辺倒というのは大嫌いだからブルーウェーブを強くしてこい」と送り出したんだけど、うまくいかなかったみたいですね。
彼の次には、やはり元巨人の「壁際の魔術師」高田繁さんがコーチになってくれたけど、そのころに娘が卒業して、いまは中断しています。いま、日本の女子が大活躍しているのはソフトボール協会の技術委員長をやっていた鈴木征という男が功労者の一人だと思うんですが、彼は僕のクラスメートだったんですよ。
――サッカー、応援団、ソフトボールのあいだも山とスキーは…。
ェ仁親王 ええ、続けました。それに学習院には「院内大会」と称して、ありとあらゆるスポーツの対抗戦がありました。ただしボート大会にはボート部は出場できず、サッカー大会はサッカー部は出られないというルール。
スキー部は、雪のない半年間は夏のトレーニングでいろんなスポーツをしていたので、院内大会を総なめにしました。駅伝をやっても上位を独占。サッカーは中学時代の経験から僕が得意満面で大活躍(笑)。
そもそも当時、子供の頃からスキーをやっていたのは僕くらいなもので、いろんなスポーツをやってた連中がスキーを始めたから、院内大会では大活躍できた。
それに、プライベートで乗馬も少しやりました。宮内庁のなかに馬場があって、そこで時々馬に乗ったんですけど、父(三笠宮崇仁殿下)と何度かぶつかった。父は古代オリエント史の研究家で、研究室が宮内庁のなかにあったんですが、運動不足を意識してか、時々練習に来る。
彼は陸軍習志野騎兵連隊のプロフェッショナルですから、その馬術技術の巧さは、じつに見事なものでした。まさに人馬一体。「日本のオリンピック選手も馬に乗せられてるだけ」と父はよくいってました。
しかし、西さん(1932年ロサンゼルス五輪金メダリスト・「バロン西」と呼ばれた西竹一男爵)とか、JOC会長の竹田恒和氏のお父様(恒憲氏・竹田宮恒久王の長男で戦後に皇籍離脱/日本馬術連盟会長・JOC委員長・IOC委員等を歴任)などは凄い馬術家で、父も「竹田宮様には勝てなかった」といってました。
が、父もかなりの名人でした。これは死ぬまで練習しても勝てないな、と思えたので、馬はさっさと諦めまた(笑)。
――「見るスポーツ」に対するご興味は?
ェ仁親王 僕は、とにかくやりたがる人間なんです。虚弱児だった子供の頃のリアクションだと思うんだけど、小学6年の頃からアレイとかバーベルを買ってもらって、自分でも身体を鍛えようと思って自主トレに励んだくらいですから。
相撲なんかは当然見ましたけど、学習院には土俵もあって相撲を奨励していて、横綱が来て土俵入りなんかしましたけど、力士が子供の相手をしてくれて、これも見るというよりやったほうだったな。
――では、現在、様々なスポーツをサポートされているのも、やるほうの立場から、ということになるのでしょうか。
ェ仁親王 そうですね。それに僕は、秩父宮様に憧れていましたから。いろんなスポーツで秩父宮杯があるように、秩父宮の叔父様こそが我が国の「スポーツの宮様」でしたからね。
――具体的にはどのような憧れを?
ェ仁親王 叔父様は大正14年にイギリスに行かれて、1年間お勉強ののちにオクスフォードのモードレン・カレッジに入学されたんですが、1学期が過ぎたところで大正天皇が崩御された。それで休学なさって、世情が復学を許さなかった。
それで僕も大学を出たらモードレンに行きたいと思って実現させた。叔父様は「秩父宮ラグビー場」があるように、本当はラグビーをなさりたかったのですが目が悪くて、当時はコンタクトレンズがなく、眼鏡をかけてやるわけにもいかないのでボートを選ばれた。
オクスフォードでボートを漕がれている写真なんかを見たので、僕もイギリスでボートをやるようになったのです。
――スキーは、いつごろから……?
ェ仁親王 オクスフォードにもスキー部はあったのですが、スキー部員は「ハーフブルー」と呼ばれて馬鹿にされてたんです。オクスフォードのスクールカラーがダークブルー。ケンブリッジはライトブルー。ですから、ラグビー、サッカー、テニス、ボクシングといったイギリス人の好むスポーツのレギュラーメンバーは「ブルー」と呼ばれるんです。
が、スキーは「ハーフブルー」としか呼ばれない。もちろんスキーは僕の本職で、欧米ではシーズン制でスポーツ競技を選べますから、スキー部にも入って冬になるとスイスへ行ってケンブリッジと闘いました。でも、誰もあまり評価してくれないから、叔父様のなさったボート部にも入ったのです。
――イギリスのボートは技術的にはもちろん、体力的にもハイレベルですよね。
ェ仁親王 ええ。だから僕はバウしか漕げない。エイトのいちばん先端で体重の比較的軽い人間でも漕げる。でも、学習院の大学での4年間、ただただトレーニングをして体力だけは自信がありましたから、1年目からモードレン・カレッジの第1エイトのレギュラーになれて、それを2年間やった。これは日本人では初めての快挙で、僕は得意なんです(笑)。
学位はともかく、レギュラーのユニフォームだけは獲得できた(爆笑)。もっとも、24か25あったカレッジが集まったオクスフォード・ユニバーシティのボートのレギュラーをしていたオーストラリアの総督がいて、そのレベルと較べると一軍と三軍くらいの差はありました。
けど、それでもその総督と会ったときは、「ブルー」だというので敬意を払ってくれました。
――欧米ではいろんなスポーツをするのが当然ですが、日本では子供の頃に野球を選ぶと野球一筋になってしまいます。
ェ仁親王 そう。オクスフォードのボート部も、僕はスキー部、キャプテンはサッカー部で、みんな2〜3種類のスポーツ部に入ってました。でも、学習院のスキー部でも、夏のトレーニングではウェイトトレーニングやサーキットトレーニングだけでなく、バスケットやサッカーもやっていましたよ。
――そういうやり方が可能だったのは?
ェ仁親王 素晴らしい先輩方に恵まれていたからでしょうね。日本のスキーは、レルヒというオーストリアの武官が新潟の高田連隊で教えたことから始まるんですが、そこの師団長だった長岡外史さんが非常に開明的な方で、当時の写真を見ると芸者衆までが袴に髷を結った姿で一本杖のスキーをしている。
もともとは対ロシア戦争の雪中行軍の訓練のためだったと思うんだけど、一般の人間にも教えた。加えて学習院の院長になった乃木希典もスキーに黎明期から理解を示したとか、いろいろあって、けっこう開かれた考え方が定着していたんじゃないかな。
――日本のスポーツ界は閉鎖的なように思えますが…。
ェ仁親王 確かに日本のスポーツ界のセクト主義は、僕も感じています。でも、僕が現在本業にしている福祉の世界も似たようなものなんです。父が総裁をしている中近東文化センターの仕事で、僕が募金活動なんかをサポートしてるんですが、考古学の世界も同じようなセクト主義があって、けっしてスポーツ界だけじゃない。国民性とでもいえばいいのか…。
それに外国のスポーツ界が開明的かというと、けっしてそうとも思えない。けっこう古い伝統に縛られている面もあります。ただ外国のスポーツ界は合理的で、たとえばモードレンでのボートの練習なんかでも、平気で「今日は休ませてくれ」という選手がいた。キャプテンが理由を訊くと、「お茶に呼ばれてる」「デートだから」(笑)。
ボートのエイトは一人でも欠けると練習ができなくて、僕らは仕方なくシングルスカルとかダブルスカルで練習することになるけど、彼らは気にしない。ところが、お茶やデートで練習を休んだ連中が、試合となるともの凄い集中力を発揮する。我々日本人は凄い練習をするけど、試合では緊張したり興奮したりで日頃の力を発揮できない場合が多いのに、彼らは逆。この合理性に勝つには、我々日本人はひたすら練習を積まないとダメだと、つくづく思いましたね。
――東京オリンピックのときに、日本はかつて「お家芸」といわれた水泳で惨敗して、それについて作家の安岡章太郎さんが「根性論から合理主義への転換期の敗戦」といった批評をされました。それから40年経った現在、サッカーのW杯で活躍した若い選手なんかを御覧になって、日本人も変わってきたとは思われませんか?
ェ仁親王 サッカー界のことはよく知りませんが、僕は、遅々として進まず、という感想を持っていますね。僕の大学時代は、本当に凄いスパルタ式トレーニングで無茶苦茶に鍛えられました。科学的トレーニングとは全然違う。
そのぶん身体も痛んでるのですが、俺たちはあれだけ練習したのだから絶対に外国人に負けないという意識がありました。精神力では負けなかった。そういうスパルタ式がなくなった一方で、科学的トレーニングを本当に理解している指導者が、いまの日本では本当に少ない。
たとえば競輪にカップ(ェ仁親王杯)を出している関係で自転車競技にかかわり、シドニー五輪でのオーストラリア・ナショナル・チームのコーチだったゲーリーさんという方を招いて日本のナショナル・チームを専門的に見てもらった。
すると彼が「日本の自転車界は三権分立だ」というんです。つまり、ナショナル・チームのトレーニング、競輪学校で教わるトレーニング、そして大学・高校・一般のアマチュアの自転車部のトレーニングが、みんなバラバラで、信じられないことに違うことを教えているという。
これじつに鋭い指摘で、「三権分立」をせめて「二権並立」にしようということになって、ゲーリーさんに競輪学校の特別コーチにも就任してもらった。競輪学校の校長さんも積極的な方で、いまは、ゲーリー式のメンタルとフィジカルのトレーニングを取り入れてます。
――その「分立」は、ほかのスポーツでも多々見られます。明治のラグビーでやることが早稲田では否定されたりとか。
ェ仁親王 そう。スポーツの技術とか科学的トレーニングには流派なんてないはずなのに。実際このあいだ前橋で行われたェ仁親王杯では43歳の松本が1位で高齢者記録を5歳伸ばし、2位には常連の小橋が入りました。みんなゲーリーさんの教えを受けた連中です。
彼のやり方が世界選手権では通用するけど競輪では通用しないというなら、「あれは別物」と考えて選手たちはカネになる競輪に集中するでしょう。が、僕の思っていたとおり、本当の科学的トレーニングならあらゆる自転車競技に通用する。そうして彼の教えを受けた選手が、競輪の世界でもどんどん強くなっています。
――日本の自転車競技は未来が明るい?
ェ仁親王 でもね。僕は常々いってるんです。「結果をアテネで求めたら大間違い。北京だぞ」と。強い選手が一朝一夕に育つわけがない。3年前にゲーリーさんを雇ったけど、3年間の促成栽培なんて無理。いまはうまくいってるけど、10年単位のロングレンジで見ないと。だからゲーリーさんにも長期契約をお願いしました。
――サッカーもそうですが、日本人のいい指導者がなかなか出てきませんね。
ェ仁親王 しかし、外国人の指導者がすべていいわけでもないからね。いま全日本スキー連盟はヘルマン・マイヤーというオーストリアの凄い選手を若いときにナショナル・チームで指導したというコーチを招いています。
でも、マイヤーという選手は、身体も大きいうえに、信じられない体力の持ち主で、長野五輪の滑降で70メートルぶっ飛んで掠り傷しか負わなかったような怪物です。そんな男を指導したコーチのやり方が、はたして日本人選手に有効かどうか…。
ちょっと専門的な話になるけど、アルペンでカーヴを切るときは谷足加重という原則があって、谷側の足に体重をかける。ところが最近はスキーが短くなり、カーヴィング・スキーといってエッジも深くなって、両足加重でも強引に回れる。
でも、それは強大な筋力を持った男に可能なことで、しかもマイヤーの滑りをビデオや写真で詳しく見ると、あれだけ凄い肉体の持ち主でも、じつはきちんと谷足加重で滑ってるんです。基本を守ってる。
そういう検証ができず、外国の文献も読めない連中が、ただ一流選手を過去に指導したというだけの男をコーチに招いても、うまくいかないと思う。そのことを僕はSIAT(日本職業スキー協会)の総裁として、会報で警鐘を鳴らしてるんですが…。
――指導者以外のことで、日本のスポーツ界の問題点といえるのは何でしょう?
ェ仁親王 スキーでは、僕らは「ハコがない」といってます。スキー場がない。
――スキー場は数多くあるのでは…?。
ェ仁親王 ゴルフでいうドライヴィング・レンジはたくさんありますけどね。
――いわゆる「鳥籠」の練習場ですね。
ェ仁親王 そう。スキー場のことを日本ではゲレンデと呼んでますが、それはドイツ語の元の意味では何キロも滑り降りることのできる広い土地のこと。日本にあるような狭い練習場はピステという。日本にはピステはたくさんあっても、ゲレンデは八甲田と立山、鳥海と十勝くらい。
アルペン選手優先コースが野沢にあるけど、数えられる程度。僕らは八方尾根で合宿をしますが、そこの4キロのコースは途中から海水浴のような人波のなかを走らなければならない(苦笑)。
――体操の塚原さんに「日本には体育館は数多くあっても、ヨーロッパにあるような体操専門の競技場がない」というお話を伺ったことがあります。似たような事情ですね。人工芝の野球場はあっても、天然芝の本物の野球場はない。
ェ仁親王 ノルディックでいうなら、ノルウェーのオスロには総計200キロに及ぶ常設の距離コースがある。10キロや5キロのナイター設備の整った競技コースや、山のなかのコースまですべて加えると200キロ。日本のノルディックは、ジャンプや複合でチャンピオンまで出すほど強いのに、距離は弱い。
それは常設コースがないから。北海道の横紋別に5キロの常設コースがある程度で、ほかのコースは大会の前に整備されて、大会が終わると片づけられてしまう。日本人はマラソンが強く、心肺機能は優れているはずですから、コースさえ整えば距離でも世界一流の選手が出るはずです。
――そういう施設の運営は、ヨーロッパではどうなっているのでしょう?
ェ仁親王 国や自治体の補助、軍隊の支援、様々な企業の援助など、いろんなサポートがありますが、クラブの加盟料や大会の参加料もけっこう高い。クラブですから、誰もがお金を出し合って維持するわけです。
ノルウェーやフィンランドはスキーが国技で、国民全体に情熱があります。それにオーストリアやフランスの場合は国立スキー学校があって、若者の育成と同時に施設の維持管理にも力を入れている。
それはスキーが一種の産業になっているからです。スキー産業振興のために、施設でも用具でも指導でも、そして選手の技術でもナンバーワンを目指さなければ、という考えがある。文部省の支援が単なるスポーツ支援でなく、スポーツ産業の支援になっている。
僕は、日本にも国立スキー学校を作ろうと運動したけど、うまくいかなかった。必要性を認知されなかった。日本ではスキー産業に力を入れなくても、自動車、鉄鋼、エレクトロニクスその他、素晴らしい経済分野が数多くありますからね。
――しかし、先進国のポスト工業化社会を考えると、スポーツ産業は非常に重要で、アメリカで30兆円といわれるスポーツ産業は、日本でも土木建設を推進する以上に内需拡大につながるはずです。
ェ仁親王 残念なことに、僕は、スポーツのことはいえるし、福祉のことも考古学のことも、青少年育成のことも発言できる。けど、政治問題につながることには触れられない。国民スキーヤーのために、スキー振興のために良いモデルがオーストリアにありますよ、とまではいえる。
――それが国の経済発展のためにも…。
ェ仁親王 それは「国策のために」という言い方になってしまうから、皇族の発言としてはダメですね。ただ、僕は長い間スポーツ界に関わってきて、とくに外国のスポーツとの取り組み方を見ていて、素敵だなと思える面が数多くあって、それを一所懸命日本に輸入し、啓蒙活動をしてきました。が、根本的に異なる面を感じます。
それはスポーツの語源たる「楽しむ」という要素。日本ではスポーツを「運動」とか「体育」と訳しているから、「楽しむ」という面が微妙に歪められたり、誤解されて、「道」を追求してしまう。武道や神道は当然「求道」の精神が必要ですが、スポーツは根本的に楽しむものです。
そこを取り違えるから、日常生活から離れてしまう。スポーツが特別な選手の特別な時間と空間だけのものになってしまって、多くの人々の日常生活に浸透しない。地域社会に密着した町のクラブも少ないから、スポーツ選手はスポーツの強い学校にスカウトされて「学校のためにスポーツをする」という特別なものになってしまっています。
そこで特別な選手ばかりが育つから、スポーツは一流でもスポーツの場を離れると二流三流といわざるを得ない人物が生まれる。インタビューの受け答えなんか、外国の選手に較べると下手でしょう。それは、スポーツだけを特別に行ってるからですよ。
さいわい最近はノルディック複合の荻原兄弟やスケートの清水、マラソンの高橋尚子や柔道の井上康生など、スピーチをさせてもきちんと話せる好青年が育ってきました。アメリカ大リーグのマリナーズのイチローなんかも日本人特有の身体というか、アメリカ人のような巨躯でなくても、努力と技術で大活躍している。
そういう選手が、これからもどんどん出てきてほしいし、そういう選手が数多く出る環境というものを整えるために、もっともっとスポーツについての根本的な問題を考えていただきたいですね。
(対談を終えて)ェ仁親王殿下の「体験に根ざした話」「迫力にあふれた言葉」は尽きない。たしかに現在の皇室の制度を考えるなら、「政治」に絡むスポーツの話題は、殿下にとってはタブーとなるのだろう。しかし、ならばどうしてスポーツに理解のある政治家が出てこない?
それはひょっとして、目先の利害に振り回されるためか?殿下は振り回されないから、真のスポーツを語れるのか? プロ全盛のスポーツの現在にあって、トップに立ってスポーツを発展させうるのは真のアマチュア精神の持ち主かも知れない、と思えた。 |