大阪市立桜宮高校バスケットボール部の高校2年生のキャプテンが、自殺した。それは、あきらかに顧問の教師による「暴力」が一因だった。
橋下徹大阪市長も指摘したように、この事件は「体罰」などと言えるものではない。一人の生徒を自殺にまで追い込んだ暴行傷害事件である。亡くなった生徒は練習試合の最中に「30発から40発」も「叩かれた」と母親に語り、「どうして僕だけが」「しばき回され」るのかと、その理不尽さを遺書に残した。
暴行の様子を映したビデオも存在し、棺に入った高校生の顔は、頬が腫れて唇は切れた跡があったという。生徒の父親が暴行容疑で刑事告訴したのも、当然と言うべきだろう。
そのような桜宮高校の暴行事件は、バスケットボール部だけでなく他のクラブ活動においても日常的に「常態化」していたことが、生徒の証言などから判明。橋下市長は「新入生を受け入れて教育できる状態にない」として、本来大阪市教育委員会の管轄事項である入学試験に対し、予算を止める可能性まで示唆する強い圧力をかけ、体育科とスポーツ健康科学科の入試中止を決定させた。
この橋下市長の「越権的決定」に対しては、多くの反対の声があがった。私も当初は、教師の不祥事に生徒や受験生までが巻き込まれるのは理不尽と思った。しかしこれは、一高等学校の事件に止まるものではない。日本のスポーツ界と体育界(スポーツ教育界)全体に蔓延する重大な問題点が象徴的に現れた大事件と言える。
なぜなら、本来スポーツにおいては絶対に否定され、排除されるべき暴力が、我が国では「体罰」として容認されていたのだから……。
じっさい桜宮高校の事件が表沙汰になって以来、駅伝の「強豪校」といわれる愛知県立豊川工高陸上部での「体罰事件」をはじめ、様々な高校や中学での「体罰事件」とその「隠蔽事件」が次々と表沙汰になった。そして女子柔道の国内トップ選手たちが、ロンドン五輪に向けての強化合宿で、代表監督やコーチから暴力や暴言などのパワーハラスメントを受けていたことまでが、JOCへの告発文書で明らかになった。
このような事件が表沙汰になるたびに、プロスポーツ選手のOBや元日本代表選手の口から必ず出てくるのが、「昔は体罰など当然だった」「我々は、よく殴られた」という言葉である。そして「体罰と暴力は違う」「愛情ある心のこもった体罰と、桜宮高校の一件は違う」と、テレビで口にした元スポーツ選手もいた。
確かに30〜40発もの殴打は、「体罰」の領域をはるかに超えている。が、ならば一発くらいの「体罰」なら許されるのか?
あるテレビのニュース解説番組で、「桜宮高校事件」を語り合っていたコメンテイターの一人が、昨年のプロ野球日本シリーズで巨人の阿部捕手がマウンド上の沢村投手の頭をポカリと叩いたことを取りあげた。
初の日本シリーズのマウンドで心が動揺したのか、死球に続いてサインの見逃しなど凡ミスを連発した沢村に「気合いを入れた」阿部の行為を、出演者の誰もが「あのくらいならいい」と笑顔で認め合ったのだ。
しかしこれは、認めるとか、認めないという次元の話ではあるまい。日本の野球界のトップに立つプロ選手が、観客の目の前で頭を叩かれないと「気合」が入らないというのは、プロとしてあるまじき情けない状態である。
おそらく手を出した阿部も、なんと情けないことか……と思いながら思わず手をあげたのだろう(と信じたい)。あるいは日本シリーズに初登板に対して心の準備を怠った沢村投手に、「体罰」を与えた一発だったと言えるかもしれない。
こういうときに、言葉ではなく手が出てしまうのが、日本のスポーツマンの日常だ。体罰を受けた選手も、それを認めて受け入れることが多く、またそれを見ている者も、情けない……と顔を顰めることもなく、笑顔で認めてしまう。
しかし、これがアメリカのメジャーリーガーなら、どうなっているだろう?
大観衆の眼前でキャッチャーがピッチャーの頭を叩くなどということは、まずありえないだろうが、もしもメジャーリーガーの先輩捕手が若手投手の頭をゴツンとやれば、若手投手といえども「何をする!」とばかりに怒り心頭に発して反撃し、大喧嘩にもなりかねないに違いない。
衆目のなかでの暴力は、たとえどんなに軽いものでも、明らかに相手の人格を否定する行為である。そこで、暴力によって人格を奪われ、人間としての自尊心を踏みにじられた者は、人格を取り戻そうと反撃に出る。
桜宮高校バスケットボール部の監督も、自らふるった暴力が生徒の人格を否定する行為だったことは、はっきりと認識していた。練習試合のタイムアウト中に、生徒の顔をたたきながら、「たたかれてするのは動物。それでいいのか」と叱りつけたことが、ビデオに映し出されていたのだ(1月24日付大阪朝日新聞)。
しかもこの場合、暴力をふるう者と、ふるわれる者は、メジャーリーガー同士のような対等の関係にあるのではなく、「先生(監督)と生徒(選手)」という上下関係にある。それは、明らかに心理学でいうところのダブルバインドである。
動物扱い(人格の剥奪)をしている当事者の先生(上の者)から「それ(動物)でいいのか」と問われても、生徒(下の者)が「それ(動物)でいい」とはもちろん答えられない。かといって、「暴力をやめて(人間として認めて)」とも、答え難い。
ましてや生徒が先生に向かって、人格回復の「反撃」に出るのは不可能だ。何しろバスケットボール部を一定の好成績に導き、指導力に定評を得た先生は、進学等の生徒の将来を左右する「力」も有しているのだ。
まさに理不尽としか言い様のないパワーハラスメントを伴う暴力だが、女子柔道の五輪候補選手たちが受けた暴力も、まったく同種のものと言える。監督やコーチに竹刀で撲たれながら「やる気がないなら死ね!」といわれても、「やる気がない」と決めつけている当事者に向かって「やる気はある」という言葉は通じない。もちろん「死ぬ」こともできない。
さらに監督は選手に対して、五輪出場の可否という生殺与奪の権力を握っている。このパワーハラスメントに対して女子柔道の選手たちは、団結して外部の組織(日本オリンピック委員会)に訴えるという行動に出た。が、桜宮高校バスケットボール部のキャプテンは、死を選んでしまったのだった。
私は、スポーツライターとして取材した学校スポーツ(体育)やプロスポーツの現場で、このような「人格を破壊する暴力」を、過去に何度も見聞きした。
甲子園の出場経験がある某「名門」高校野球部の練習では、「名監督」と呼ばれる人物がノックでエラーをした選手を呼びつけ、グラヴをはずして素手で構えさせ、3メートルくらいの至近距離から「逃げるな! 体で覚える!」と、硬球を何発も投げつけた。もちろん、そのボールを素手で受け取ることなどできない高校生は、硬球を10発近くも腹や腕や足に当てられ続けた。
また別の「名門」野球部では、送りバントの練習に失敗した生徒に向かって、監督が「俺の手も痛いんだ!」と叫びながら何発も平手打ちを浴びせる光景を見たことがある。生徒は鼻と唇に血を滲ませながら、「ありがとうございます!」と答えていた。
後日、留学生としてその高校を卒業した外国人プロサッカー選手にその話をすると、「それは、まだマシ。うちの体育教師は、朝礼のときに女子高生を思いきり殴ってました。女の子を殴るのだけは絶対に許せなかった……」と語った。
高校野球だけではない。アマチュア・レスリングの試合でコーナーに戻ってきた選手に対して、何発も平手打ちを浴びせるコーチ……、柔道の試合前に「気合い入れ」と称してビンタを浴びせる大学柔道部の監督……、ミスをした女子選手を体育館の通路で思い切り平手打ちにしたばかりか、尻にキックを浴びせた社会人バレーボールの監督……、選手の顔が晴れあがり変形するほどまで殴り続けたプロ野球の監督……などなど、日本のスポーツ界の現場には、じつに多くの暴力が存在するのを、この目で目撃した。
そして暴力が事件として表沙汰になるたびに、いつも「体罰はどこまで許されるか」という、まったくナンセンスと言うほかない論議が繰り返されてきたのである。
そもそもスポーツとは「闘い」や「争い」といった「暴力行為」を「ルール化=非暴力化」し、「ゲーム化」することによって成立したものともいえる。だからスポーツは、民主主義がいち早く成立した古代ギリシャや近代イギリスといった地域で生まれ、発達した。
つまり、力の強い者がその力(暴力)によって社会の支配者になるのではなく、選挙で選ばれた為政者が、同じく選挙で選ばれた議員で構成される議会との話し合いで政策を決める――そんな民主主義が発達した地域でこそ、スポーツ(闘いのゲーム化)も生まれ、発達した。従ってスポーツは、平和主義に根ざし、「反暴力」の先頭に立つヒューマニズムの象徴的文化と言えるのだ。
(従って、古代や中世の中国やイスラム世界では、どれほど経済的に発展しようと、スポーツを生み出すことはできなかった。)
ところが日本の体育教育では、このようなスポーツの本質――スポーツとは何か? ということを、いっさい教わらない。しかも個々のスポーツ競技の「本質」――たとえばバスケットボールや柔道という競技は、何故、いつ、どのようにして誕生し、発展してきたか、といったことも学ぶことなく、ただバスケットボールや柔道のルールを(体で?)覚えさせられ、試合での勝利を目指して戦術や技術を叩き込まれる。
そして、体力に恵まれ、技術や戦術で「上位」に立った者が、選手を引退してから「指導者」となる、というのが圧倒的多数派と言えるのだ。
その繰り返しのなかで「体罰」という名の暴力によって「鍛えられた者」は、自分が指導者になると、同じように自分が受けた暴力を繰り返す。そのうえ、その暴力がエスカレートする傾向にあるとされている。
また、あらゆるスポーツが本質的に「反暴力」とはいえ、そのメッセージに気付かないまま肉体を鍛え、力を競い、技で相手を負かす「闘い」を繰り返していると、スポーツは暴力的なものとの誤解も生じやすい。
さらに兵士の肉体鍛錬や闘い(戦争)の技術に利用されたりもするなかで、スポーツは暴力と強く結びつく親和性を有している。つまりスポーツは素晴らしい「反暴力」の文化であると同時に、スポーツによって暴力が蔓延する危険性も高いという、二律背反の要素を有しているのだ。
そこで国際オリンピック委員会(IOC)や、その内部の研究組織である国際オリンピック・アカデミー(IOA)では、スポーツ界の「反暴力」を「オリンピック運動」の重要な要素と位置づけ、ユース・オリンピック大会(4年に一度開かれる14〜18歳の世界大会)の教育プログラムを通して「スポーツにおけるあらゆる暴力の追放」を訴えている。
ところが日本では、今回の桜宮高校の一件に関しても、信じられないほどの凶悪な暴行と言うべき暴力をふるった監督が(さらにイジメとしか言えない陰湿な行為に及んだ柔道の監督までが)、「いい監督」と評価され、父兄の間から復帰を望む声まで存在する(女子柔道の監督も、なかなか「辞任」には到らなかった)。そして、そのような「暴力に肯定的な評価」を、さらに肯定的に取りあげるメディアまであった。
それらはすべて、スポーツに対する「無知」が根底に存在しているというほかない。
「スポーツとは何か?――それは民主主義とともに人類が生み出した反暴力の身体文化である」「バスケットボールとは何か?――それは、屋内でもフットボール(サッカー)を行いたいと考えたアメリカの体育指導者が、ゴールに籠を用い、オフサイドの反則規定を廃止し、その代わりにボールを持って3歩以上足を運んではならないというルールを定めて、19世紀末に人工的に創作した球技である」……といった基礎知識が、いったい何の役に立つのか? と問われれば、すぐには何かの役に立つとは答えられない。
しかし、スポーツとは何か? バスケットボールとは何か? をいっさい考えることなく、ただ規則通り動き(そのように教わり)、相手よりも上手く動き(そのように体罰で鍛えられ)、試合に勝つことによって褒美を貰うというのでは、それこそ「人格を喪失した動物と同じ」である。しかもスポーツに対する基礎知識の欠如はスポーツに対する数多くの小さな間違いを生み、やがて大きな誤解を招く。
たとえば日本の「スポーツ強豪校」と呼ばれる学校のクラブには、補欠、あるいは二軍、三軍と呼ばれる公式戦にまったく出場しない選手たちが数多く存在する。このことが欧米のスポーツ文化で育った人々には理解できない。
部員(選手)の人数が多いのなら二軍チームも三軍チームも全てのチームが(○○高校Aチーム、Bチーム、Cチーム……として)公式戦に出場できるシステムをつくるべきで、そうしなければ中学や高校の3年間、あるいは大学の4年間、まったく試合に出られない選手が出てしまう。
そうして練習ばかりを繰り返し、甲子園のアルプス・スタンドでメガホンを持って叫んでるだけでは、スポーツ教育とは言えないだろう……と、セルジオ越後氏に最初に言われたときは、何故私は、そのことに自分で気づけなかったのかと、恥じ入るほかなかった。
また日本ではスポーツの指導者を「監督(英語ではマネジャー)」と呼ぶことが一般的なため、学校体育からプロスポーツまで、選手は「上の立場に立つ監督(マネジャー)」から「管理(マネージ)」され「指導」される意識が強い。そのため、いくら「プレイヤーズ・ファースト」という言葉が口にされても、「監督は選手のことを一番に考えてあげないといけない」と、選手に対する庇護意識を上に立つ監督に求める程度にしか認識されず、選手とコーチ(指導者)は対等関係にある、という意識は育たない。
さらに英語で「Health & Sports Day」と称している祝日を「体育の日」と称し、「National Sports Festival」を「国民体育大会」と呼んでいるように、「スポーツ」の訳語が「体育」であるかのような誤解を生んでいる。その結果日本のスポーツマンは、ますます「監督」による「教育」を受ける従属的な立場を離れられず、自立することができない……などなど、スポーツに対する基本認識の欠如から、じつに様々な日本のスポーツの問題点が派生してくる。
そんななかで最も大きな問題点は、やはりスポーツ・ジャーナリズムのあり方、といえるのではないだろうか。
日本のメディアは、ことスポーツに関する限り、ジャーナリズムとしての報道や批判以上に、主催新聞社や後援放送局としてスポーツに関わっているケースが多い。
桜宮高校の事件の背景にも、教育が本分であるはずの高校スポーツを、過度の勝利至上主義が歪めている、と指摘する声はあった。が、それを最も煽っているのは甲子園大会を頂点とする高校野球で、それを主催するのは朝日新聞社や毎日新聞社。従って問題の本質に迫る高校野球批判は、系列のテレビ局も含めて、なかなか表立っては出てこない。
大雪で延期された全国高校サッカーの決勝戦がセンター試験と同じ日に行われたことも、たとえ両チームの選手のなかにその受験生が一人もいなかったとしても、スポーツに力を入れる高校生は勉強などしなくても良い、というメッセージを発するものとして、けっして好ましいこととは言えないだろう。
しかし日本テレビ系列43社が主催し、読売新聞社が後援するなかで、ジャーナリズムは、真っ当な批判を展開できなかった。
さらに、女子柔道の五輪代表選手の発表をイベント化し、BGM付きでドラマチックにテレビで生中継し、落選した選手の顔のアップを映し出すという無神経極まりないスポーツ・ジャーナリズムのカケラもない愚挙に及んだのは、フジテレビだった。
他にも様々なスポーツがマスメディアと結びつき、イベント化されるなかでスポーツ・ジャーナリズムが機能しなくなることが多く、日本のスポーツや体育は、大きく歪められているのだ。
とはいえ、今回の「桜宮高校事件」や「女子柔道事件」で日本のスポーツ界と体育界の問題点が数多くあぶりだされ、その結果、桜宮高校も、全日本柔道連盟も、あるいは講道館も、何らかの改革に手がつけられるだろう(ここまでの大騒ぎになりながら、何も改革できないようでは、どうしようもない)。
折しも2020年東京オリンピック・パラリンピック招致活動が展開されているなか、その活動と日本のスポーツ界や体育界の改革が連動して行われることこそ、五輪招致運動の意義もあるはずだ。
日本のスポーツ界と体育界からいっさいの暴力が排除され、社会全体がスポーツに対する広い知識を身に付け、その意義を正しく認識するようになり、そしてそれが2020年の東京五輪開催につながれば、それほど素晴らしいことはない。が、それには何よりも、真っ当な批判精神を有するスポーツ・ジャーナリズムの確立が必要なはずだが……。 |