柔道は、武術から生まれたスポーツである。
武士が刀や槍などの武器を持たずに闘う「組み討ち」には、様々な流派の柔術があった。それらはすべて戦場で戦う手段で、最終的には敵を殺す技術だった。
そのような柔術を、嘉納治五郎は明治時代に「柔道」と名付けて各流派を統一。「精力善用・自他共栄」を目的に競技としてスポーツ化した。
たとえば大外刈りという技は、柔術では相手の襟首や袖を掴んで引き付け、脹ら脛(ふくらはぎ)の下部にある急所を踵(かかと)で蹴って失神させ、相手を後頭部から倒すのが「最善の技」とされた。
が、嘉納治五郎がルールを定めた柔道では、踵で急所を蹴ることを禁止。足を掛けて相手を背中から倒す技に変えた。
このように殺人にも通じる武術(マーシャルアーツ)から、相手を死に至らせたり身体を傷つける行為を排除し、ルール化し、ゲーム化したスポーツが格闘技である。
従って全ての格闘技には「殺すな!」「傷つけるな!」という反暴力・非暴力のメッセージが強く込められているのだ。
とはいえ暴力的な行為から生まれたスポーツだけに、格闘技は暴力と強い「親和性」(すぐに結びつく性質)を有し、格闘技の本質を正しく理解していない格闘家は、格闘技の専門家として、自分の強さを誇示し、暴力をふるう危険性が高い。
そこで嘉納治五郎は、柔道で重要な稽古として「形・乱取り・講義・問答」の四つの要素を挙げた。
「講義」と「問答」は言葉と対話によって柔道の技を磨き進歩させることだが、加えて、柔道とは何か? 武道とは何か? スポーツとは何か?……といったことを先人の「講義」から学び、質疑応答(問答)を通じて、柔道の価値や、柔道を行う意義などを理解する行為でもある。
ところが日本の柔道界は闇雲に金メダルを獲ろうとするあまり、身体的技術ばかりに目が行き、嘉納治五郎の教えも、「反暴力」という柔道(スポーツ)の教えも忘れ(あるいは最初から学ばず)、五輪候補選手の指導者という日本柔道界の頂点に立つ人物までが暴力行為に手を出してしまった。
しかも、これは柔道界だけの問題ではない。
我が国の体育教育ではバレーボールの「バレー」や、フットボールの「サッカー」という言葉の意味すら教えず、オフサイドは何故反則か? バスケットボールでは何故ボールを持って3歩以上動いてはいけないか? といった理由も教えない。
さらに、スポーツとは何か? という疑問も持たせず、ただルールを鵜呑みにさせて身体技術ばかりを教えてきた。
その結果が、(暴力を否定するところから生まれた)スポーツでは絶対にありえない「体罰(暴力)」の容認につながったのだ。
欧米の人々は「SPORTS」という言葉を「身体を動かす運動競技」という意味以外に、「冗談」「気晴らし」「余暇の遊び」といった意味でも使う(Every
music has a Sportive element.と言えば、あらゆる音楽には冗談の要素がある、という意味になる)。
だからスポーツ競技に暴力的な要素があるとしても、スポーツと暴力は最も相容れないものという理解が、言葉のうえでの常識として身につく。
が、非英語文化圏に生まれ育った日本人は、その常識は学ばなければ身につかない。
欧米の常識が日本の常識と異なるなかで、英語の達人でもあった嘉納治五郎は、当然スポーツの意味もスポーツ化した柔道の意義も理解していたはずだ。
なのに今回の日本柔道界の一件が、外国人(世界柔道連盟)から「嘉納治五郎の教えと異なる」と指摘されたのは、彼の末裔たる日本人として本当に恥ずべきことである。
この一件が東京五輪招致に悪影響を及ぼすとも言われているが、重要なのは、これを機会に日本のスポーツ界から暴力を一掃することである。そして真のスポーツ理解から「反暴力」のメッセージを世界に発信することこそ、五輪招致にもつながるはずだ。 |