いまから40年くらい前、小学6年生のときのことだった。わたしが生まれ育った京都祇園町界隈で、町別対抗ソフトボール大会を開催する、という話が持ちあがった。そこで亀井町という名前の我が町内も「選手強化」に乗り出した。
といっても、町会費のなかからグラヴやバットがいくつか購入されただけで、指導者もいなければユニフォームもない。さいわいグラウンドだけは、近くに建仁寺という境内の広い寺があったので、そこで練習を始めた。
いつもは「文化財の塀にボールをぶつけるな!」と怒る和尚たちも、町別対抗の「公式戦」のための練習ということで、このときばかりは大目に見てくれた。
そして、寿司屋や酒屋、呉服屋や下駄屋などで働いている若い衆に混じって最年少投手として抜擢されたわたしは、洛東中学校の校庭で催された大会に勇躍出場した。
が、結果は無惨。ほとんどが商店街で働いている連中で、まともな練習のできなかった我がチームは、たっぷり練習を積んだ住宅街のチームに20点以上奪われ、初戦で敗退してしまった。もちろん、途中からリリーフで登板したわたしも滅多打ちを食らって火達磨にされた。
が、そんななかで、自慢できるプレイがひとつだけあった。まるで練習用の打撃投手のように相手打者にポカスカと打たれ、毎回のように相手チームの走者に塁上を駆けまわられ、カッカと頭に血を上らせながらもコノヤローと思ったわたしは、一瞬のチャンスを見逃さなかった。
左中間を抜く痛烈なライナーを打たれた次の瞬間、二塁走者に続いて一塁走者も本塁を狙うに違いない・・・と思ったわたしは、にわか仕立ての我がチームの外野からの返球が、まともに内野手のグラヴに収まるわけがない、との判断を加え、三塁手のバックアップのため、三塁線の外側のファウルゾーンへと走った。
予想通り外野からの返球は、三塁手の脇をすり抜けてわたしのグラヴにすっぽり。目の前には三塁ベースを大きくまわって本塁を狙う走者。飛んで火に入る夏の虫・・・とは、その時は思わなかったが、まったくそんな状況で、わたしは楽々と走者にタッチして、貴重なアウトをひとつ得たのだった。
「小学生のくせに、なかなかやるやないか」
敵のベンチから聞こえたそんな言葉が、いまも耳に残っている・・・。
日本の野球の指導者たちは、ことあるごとに「基本」という言葉を口にする。「大リーガーのプレイは基本に忠実で、誰もがいつでもきちんとバックアップに走る」といった具合に。そして「基本に忠実なプレイ」を徹底的に教え込み、命令する。が、私は、そんなやり方が、あまり好きになれない。
命令されれば反発もする。強制されればサボりたくもなる。大リーガーたちが喜々としてバックアップに走るのは、自分がヒーローになれる瞬間を求めてのことに違いない。そう確信している。
それに対して日本の野球選手が、ときに「基本」を忘れて動かないのは、中学高校の頃からあまりにも繰り返し命令され続けたからではないだろうか?
『内野ゴロのたびに一塁手のバックアップに走るキャッチャーの姿を見るとき、私は、社会のなかで人知れず黙々と行い続ける努力の行為の尊さを知る』
某大学の某大先生の書いたそんな意味の文章が、小学校だか中学校のときの教科書に載っていたことをいまも憶えているが、なーに、ヒーローになる瞬間を求めてるだけ・・・と考えるほうが、野球というスポーツがもっと楽しくなるに違いない。
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上記の教科書に載っていたと記憶している文章は、慶応大学教授だった小泉信三の書いたもののはずです。きちんとした文章を確認したいのですが、出典がわかりません。どなたか御存知の方はお教えいただけるとありがたいと思います。 |