「スポーツ」という人間の文化を生み出し発展させたのは、古代ギリシアと近代イギリス。それは両文明が「民主主義」という制度を生み出し発展させたからだった。
民主主義以外の社会では、社会の支配者(王や皇帝や独裁者)が戦いに勝って支配者となる。一方、民主主義の社会では、社会を治めるリーダー(首相や大統領)を選挙で選ぶ。そして同じように選挙で選ばれた多くの人々が会議を開き、話し合いで政治を行う。
つまり民主主義制度とは、暴力を排除した社会のこと。そこで、敵と殴り合ったり、取っ組み合ったりする暴力も、ボクシングやレスリングといったスポーツに姿を変えた。また、丸い物体(ボール=太陽=社会を支配する象徴)を奪い合う闘いも、古代メソポタミア社会で生まれたときや中世のヨーロッパで発展したときは、多くの男達が暴力をふるって奪い合い、時には死者が出るような闘いだった。が、それが近代イギリスに伝わると、サッカーやラグビー、さらにホッケーと姿を変えて暴力が排除され、スポーツとなった。
そうして民主主義とスポーツは世界中に広がり、日本では、武士が戦場で刀や槍を使わずに取っ組み合って闘う武術(柔術)は、明治時代の嘉納治五郎という人物によって柔道というスポーツに姿を変えた。
また、雪深い冬でも室内でフットボールのようなスポーツを行いたいと考えたアメリカ人は、足ではなく手を使うバスケットボールというスポーツを創り、発展させた。
つまりスポーツには、そもそもあらゆる暴力の存在を否定し、排除する思想が含まれているのだ。だから、たとえ愛情がこもっていようが、指導する者とされる者に強い信頼関係があろうが、ほんのわずかな暴力でもふるわれた瞬間、すれはスポーツではなくなってしまうのだ。スポーツを用いた教育(体育)でもなくなってしまうのだ。
スポーツとはそういう文化である、と多くの人が真のスポーツの意味を正しく理解すれば、「体罰」など存在できないはずなのだ。 |