いまから23年前の1981年。プロ野球は、開幕前から例年以上の盛りあがりを見せた。というのは、東海大学の「若大将」原辰徳がジャイアンツに入団したのを筆頭に、プリンス・ホテルの実力ナンバーワン選手・石毛宏典がライオンズ、同じく即戦力捕手の中尾孝義がドラゴンズ、そして甲子園の優勝投手・愛甲猛がオリオンズ…と、スターの輝きを放つ有力新人が一斉にプロ入りしたからだった。
いったい誰が、どのくらいの活躍を?と考えるだけで胸がわくわくした。
当時、駆け出しのスポーツ記者だったわたしも、キャンプが始まると、有力新人選手を片っ端から取材してまわった。そして川崎球場を訪れ、練習を終えた愛甲選手がシャワーから出てくるのを待っていたときのことだった。
腰にバスタオルを巻いたオリオンズの選手たちが、シャワールームからロッカールームへ次々と出てくるなかで、見知らぬ一人の選手に話しかけられた。
「取材なの?どうせ愛甲なんでしょ」
その斜に構えた口の利き方に、わたしが少しばかりムッとしながら頷くと、その男は、「いいよなあ、若くって」といったあと、濡れた髪の毛をバスタオルでゴシゴシ拭きながら、一人勝手に話を続けた。
「18だよ。18歳。若くって、未来はいっぱいですよ。それに較べたらオレなんて、もう28だからね。今年くらいは何とかしなきゃ、プロになった意味がないよ」
ぺらぺらと一人で喋るその男に向かって、ちょっと反撃を加えてやろうと思ったわたしは、「何とかするって、何かできるの?」と訊いてみた。するとその男は、飄々とした顔つきのまま平然と、「首位打者を獲るよ」と、いってのけた。
髪の毛を拭き終えた男がバスタオルを放り投げたロッカーの上には、「落合」と書かれた名札が付けられていた。わたしは、唖然としながら、この男が落合か…と、思ったことを今も記憶している。
その名前の男が、元東芝府中のスラッガーで、全日本チームでも4番を打ち、インターコンチネンタル・カップで大ホームランを放ったことは知っていた。26歳でプロ入りし、1年目は啼かず飛ばず(36試合2本塁打)。2年目の昨シーズンは後半から一軍で活躍しはじめた(57試合15本塁打2割8分3厘)が、当時の山内監督に「プロでは通用しない」と烙印を押されたこともスポーツ紙で読んでいた。
そんな男の突然のまったくプライベートな「宣言」に、開いた口がふさがらなくなった。何しろ周囲には、わたし以外に誰もいなかったのだから、その「宣言」がメディアを意識したパフォーマンスでないことは確かだった。
が、もっと驚いたのは、その年のシーズン終盤、彼がゴールデン・ルーキー石毛宏典と熾烈な首位打者争いを演じ、最後に打率3割2分6厘(33本塁打90打点)で本当に首位打者を獲得してしまったときだった。
以来、わたしは、落合の「いうこと」は、すべて信用することにした。翌年、彼は「三冠王を獲る」といって、三冠王を獲った。そのあと、「三冠王は3度獲る」といって、じっさい3度の三冠王に輝いた。
そのとき、わたしは、もはや驚くことはなかった。何しろ、無名時代に「首位打者を獲る」と口にしたのが、記者会見の席でもなければ大勢の番記者に囲まれての発言でもなく、偶然出逢った駆け出しの雑誌記者に思わず口にしたものだったのである。
それがリップサービスでないことは確かで、目標を公言することで自分を追い込むとかヤル気にさせるという効果があるとも思えない。要するに、彼には「確信」があったのだ。年齢的に「何かしなければ」と思うなかで、前年後半の活躍によってつかんだ確かな自信。その確信は、彼にとって間違いなく確かなものだったから、ちょっと誰かに話してみたくなったのだろう。
三冠王のときは、彼をとりまくマスコミが多くなっただけのことで、彼は確信のない言葉は口にしない。今季ドラゴンズの監督となった彼は、「補強をしなくても、現在の選手がレベルアップすれば優勝は可能」と語った。それも「確信」に違いない。
もっとも、現役選手時代の落合は、自分の身体で「確信」を掴み取ることができた。オリオンズ時代には毎年の春の鹿児島キャンプで、1時間を超す特打を行っていた。が、監督としては、選手にさせるほかない。だから「優勝は可能」という言葉に「選手のレベルアップができれば」というエクスキューズが加わったのかもしれない。
4月末の時点で、落合ドラゴンズは好位置に着けている。はたして今後、シーズン中の「選手のレベルアップ」をどれくらい「させる」ことができるのか?
今シーズンは、観客動員が減っているといわれるが、じつは(セ・パともに)なかなかに面白いペナントレースである。
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……と、まぁ、その後小生は落合選手に何度もインタヴューをさせていただき、いろいろ野球の見方を教えてもらったりもしたが、「日本シリーズ完全試合」目前での投手交代には、正直いってガッカリさせられた。
それもまた、彼流の「確信」なのだろう。「野球観」の違いはどうしようもない。かつてジャイアンツでV9を達成した川上哲治監督は、徹底した「勝利至上主義」で「オール・フォー・ワン」の存在しない「ワン・フォー・オール野球」を実践した。当時としてはあまりに送りバントが多用されたりもしたので、ドジャース戦法の「ゴー・ゴー・ベースボール」をもじって「コーコー(高校)ベースボール」と揶揄されたりもした。
その野球を引き継いだのが、広岡達朗氏であり、森祇晶氏であったと、小生は考えているが、落合博満監督もその“名将の系譜”に加えるべきだろう。
それにしても「美しい奇蹟」の生まれる瞬間が消えてなくなったときの小生は、大好きな野球小説であるロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』の主人公のような気持ちに陥ったのだった。
現役選手時代に「個人主義的」だった人物ほど、監督になると「選手個人よりもチームの勝利に固執する」という「原則」が成り立つようにも思えますが……如何?(森氏は捕手というポジションであっただけに当てはまらないかもしれませんが)
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