スポーツで「日本」は「世界」からいつもいじめられている。そんな話をよく耳にする。
たとえば柔道。最近「嘉納杯東京国際大会」が「グランドスラム東京」と改名することになった。国際柔道連盟(IJF)が主要大会の成績をポイント化して選手のランキングを発表することになり、同大会がグランドスラム(世界四大大会)に組み込まれたためだという。
ただそれだけのことで名前まで変える必要はない。柔道の始祖である嘉納治五郎の名前を消す必要はない、と思うのだが、「世界」の決めたことだという。
着色柔道着の問題や、判定における細かいポイント制の導入など、柔道は「世界」と「日本」の意見の齟齬が多く、シドニー五輪では「誤審」にまで発展。あきらかに「内股すくい一本勝ち金メダル」のはずが、逆に「有効」を奪われ、銀メダルにされてしまった。
またスキーのジャンプ競技では、日本が世界を制覇した結果、用具のルール改定が行われ、背の低い日本人選手は不利となり、ジャンプやスキー複合で勝てなくなった……と(マスメディアは)騒いだ(同じルールで背の低い外国人選手は活躍しているんですけどねえ)。
その他、古くはF1レースのエンジンのレギュレーションの改定から、最近ではフェンシングのランキング・ポイント制(太田選手はずし)や、水泳の水着の認定問題(背泳の入江選手の世界記録つぶし)に至るまで、日本は「世界のスポーツ界」からイジメられているとしか思えないようなルール「改定」「変更」の事態に見舞われている……という。少なくとも日本のメディアは、そのような論調の報道をしがちだ。
が、それなら、スポーツのルールはいったい誰が、何処で、作り、改定しているのだろう?
それは各スポーツ競技の世界組織であり、その組織は運営やルールに関わる役員が、民主的な方法(選挙)で選ばれるようになっている(そうでない場合は、訴えることができる)。つまり、日本人の役員も、ルールの変更作業や改定作業に携わったり、異議を唱えることができるシステムになっているのだ。
にもかかわらず、英語や仏語(オリンピック公式語)を(流暢に)話せるスポーツ団体関係者がいなかったり、英語や仏語で文書を書ける関係者がいなかったり、はっきり意見を言って抗議できる関係者がいなかったり……。しかもスポーツを学校体育で身につけた日本人の多くは、(先生が教える)ルールは絶対に守るべきものと考える傾向が強く、自由に変えようという意識が弱い。
そんなところへ「ルール改定」が提案されると、日本人(の多く)は、ただ慌てるほかなかったようだ。
……というのは、過去の話で、これからは「世界」に向かって意見を述べる日本人スポーツマンが出現するはずだ……と考えたい。
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