《人間の常識を超え 学識を超えて起これり 日本 世界と闘ふ》
これは第二次大戦後に東京大学総長となる政治学者の南原繁が、1941年の真珠湾奇襲攻撃の報を聞いたときに詠んだ(少々字余りの)短歌である。
戦争のことはとりあえず脇に置き、またスポーツを戦争に比して語ることの愚についても御容赦いただき、最後の「日本世界と闘う」というフレーズに注目してほしい。この瞬間から日本は太平洋戦争に突入したのだが、それ以前の1931年満州事変以来、日本は(主に)中国と(アジアで)長く戦火を交えていた。
それでも真珠湾によって米英との闘いの火蓋を切った瞬間「世界と闘う」という言葉が、かなり高い学識経験者の口から飛び出したのである。おそらく多くの人々も同様の感想を抱いたのだろう。だから、こんな言葉が飛び出てきたに違いない。
この日本人の「世界観」は今日も変わらない。とりわけワールドカップとなると、日本のメディアは「世界と闘う」というフレーズを頻繁に使う。まるで日本は「世界の一員」ではなく「世界の外部」に存在しているかのようだ。
たしかに今日の日本のサッカーは「世界の一員」とは思えない「世界基準」から外れた特徴がある、と多くのメディアは指摘する。
パスまわしは巧いが、得点力がない。決定力不足。ミッドフィルダーは育つが、フォワードが育たない。ドリブラーが育たない。組織プレイは巧いが、個々の選手の突破力がない。それが日本人の特徴……日本社会の特徴……それが「世界」とは異なる日本文化……。
しかし、そ指摘は正しいだろうか? ひょっとして、そんな認識こそ(勝てない戦争に突き進んだかつての日本と同様)日本サッカーの最大の弱点ではないか?
野球の世界でも、かつては同じようなことが言われていた。
たとえば日本人の投手は、本格派は「世界」に通用せず、横手投げか下手投げしか通用しない……と、野茂が登場するまで言われ続けた。この場合の「世界」とは、アメリカ・メジャーリーグのことで、野茂がドジャースに加わったときも、多くの評論家は「すぐに尻尾を巻いて帰ってくる」と断じていたものだった。
また日本人の打者はミートの巧い小細工のできる打者しか「世界」に通用せず、クリンアップを打つ「世界的スラッガー」は日本人には無理ともいわれていた。が、松井秀喜が見事に中軸スラッガーとして活躍した。そして日本人的(?)なイチローは、桁外れの「世界」記録を打ち立てた。さらに日本人の捕手だけは「世界」で無理とされた「常識」も、城島が覆してくれた。
現在、日本のサッカーで「常識」と考えられていることも、おそらくこの程度のことだろう。
得点力が…決定力が…突破力が…日本人は…「世界」と異なる日本文化は…といったところで所詮はサッカーが下手なだけ。巧い選手がいないだけではないか。運動神経に恵まれ、体力を身につけ、技術レベルの高い選手が何人か出現すれば、日本サッカーの問題点は解決の方向に向かうはずだ。
屁理屈は要らない。ワールドカップで「世界の一員」として闘えば、日本サッカーのレベルがわかる。わかれば、そこからまた新たな闘いを始めるだけだ。スポーツとは、そういうものだろう。
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