間もなくトリノ冬季五輪大会が開幕する。
「雪と氷の祭典」ともいわれるように、冬のオリンピックは、「自然」が主役ともいえる。
スキーのジャンプでは一瞬の風の強弱や風向きの変化が勝負の分かれ目となり、スピード・スケートの選手は、氷から溶けた水のつくりだす薄い皮膜をいかにうまくとらえるかに、細心の神経を注ぐ。
夏の大会でも、時に猛暑がスポーツの結果に影響を与える場合もあるが、走るのはアンツーカー(全天候型トラック)や人工のアスファルトの上であり、闘うのは冷房のきいた体育館のなかであり、泳ぐのは波を消す装置の付いたプールである。
そのように、夏のオリンピックは、ほとんどが人工的環境のなかでスポーツが行われるようになった。
人間の「身体」はもちろん「人工」ではなく「自然」の存在だから、夏の五輪は「人工的環境のなかで身体という自然を極限にまで機能させる競技」といえる。
それに対して冬の五輪は、「大自然のなかで身体も自然の一部であることを改めて教えてくれる競技」という言い方ができるだろう。
たとえばスキーのジャンプの有力選手が、不運な一陣の突風によって失速し、メダルを失うことがある。それはたしかに「不運な出来事」といえる。
が、人間の「身体」も「自然」の一部であるならば、その内側の自然(身体)にも一陣の突風が吹くことは起こりうる。
太陽が昇り、雪の温度が上昇し、スキーヤーがワックスの種類を選び直しているとき、身体という自然も、変化する周囲の環境に適応するため、あらゆる細胞が蠢動(しゅんどう)しているのだ。
風も雪も氷も、そして自らの身体も、すべて同じ自然の一部であり、選手はそのすべての「自然」と闘っている。
そのことに気づくとき、冬のオリンピックは、さらにダイナミックな姿で、我々スポーツ・ファンを楽しませてくれるに違いない。
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