0勝2敗1引き分け。そしてブラジルには軽く子供扱いされての完敗。
何も策を講じなかった監督…。選手を信頼し(すぎ)て選手の能力のみに勝敗をゆだねた監督…。ジーコのおかげで、サッカー日本代表の世界におけるナマの実力がはっきりとわかった。
とはいえ、敗戦の責任のすべてを監督と選手だけに押しつけるわけにはいかない。
日本代表チームとは文字通り日本を代表するもので、彼らの姿は今日の我々の姿といえよう。
体力的に劣った姿は、食が細く、駅の階段を上らず、エスカレーターの手すりにもたれている現在の若者たちを代表するものともいえる。
南米諸国のモーニングステーキは200グラム。ディナーは1人前1キロが当たり前で、欧米を旅行する日本人観光客は誰もがその一食分の料理の多さに辟易とする。
が、かつての日本人は食が太く、ざるそば、うどんの類は定時の食事ではなく、三時のおやつに食べるものだった、という。そのことを何かの本で読んだ記憶がある。
当面は明らかに痩せすぎと思えるまでのダイエット・ブームの社会的風潮に警鐘を鳴らす必要があるかもしれない。
精神力については「大和魂」や「根性論」が否定された今日、それらに代わる言葉(思想)がなく、存在する(心を奮い立たせることができる)のは「目標」だけ。だから目標(決勝トーナメント進出)が消えた瞬間、緊張の糸が切れて何もできなくなってしまった。
どんなに苦しいときでも全力を尽くし、無様で恥ずかしい姿は見せない……という「誇り」や「プライド」を日本代表選手の共通意識として持たせるには、まず政治経済の指導者層から、権力の亡者や守銭奴を排除し、そのような恥を知らない連中をなくすことが先決といえるかもしれない。
日本の社会は、過去の長いあいだスポーツを「教育」(体育)としてとらえ、実践し続けてきた。学校で行うスポーツの目的はスポーツを通じた体力養成であり、人格形成であり、スポーツを通して社会的ルールを体得し、協調性ある良き社会人を育成することである。
その「体育教育観」がスポーツとゴッチャになり、今もスポーツの場で同様の考えを最優先させているスポーツ界の指導者も少なくない。
しかし、W杯でプレイしている諸外国の選手には、どこを探しても「良き社会人」の姿など存在しない。敵の選手への激しいタックル、身体をぶつけ、ユニフォームを掴み、スパイクの裏を使ってまで敵の突進を阻止しようとする。
そしてゴールを狙う選手は、それらの「暴力」に負けることなくシュートを放つ。
彼らのボールを奪おうとするギラギラとした目つきは、狂気を含むほどの野生の激しさに満ち、「良き社会人」とはほど遠い。
しかしスポーツとは本来、そういうものなかもしれない。
スポーツに様々な教育的効果があるのは事実であり、素晴らしいスポーツマンシップは発揮されるべきだろうが、それは一般社会とフィールドの上は別世界、という前提のもとに存在するはずだ。
にもかかわらず、スポーツのなかにまで教育を持ち込んだ日本の「体育界」は、先輩後輩を軸にした体育会系という特殊な縦社会を生み出し、命令で動く(命令でしか動けない)従順な(善良な)スポーツマンを数多く輩出した。
その縦関係はフィールドの外にも広がり、先輩は社会でも優位に立つ一方、フィールドのなかの実力は、一向に進歩しない…。
サッカー界はそのような体育会系色が最も薄いと思っていたが……。
「何もしなかった」ジーコは実にいろいろなことを我々に考えさせてくれた。そのことだけは次に生かさなければ……。
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