喉元過ぎれば熱さを忘れる? 東京オリンピック・パラリンピックが終了して約1か月。メディアは自民党党首選の話題一色で、オリパラの話題など忘れてしまったようだ。
しかし1年間の延長を経て開催された大会は、一説によると4兆円の費用がかかったとも言われ、無観客で900億円余の入場料収入もゼロに帰した結果、莫大な赤字が残されたとも囁かれている。
組織委員会によるその正確な数字(決算)の発表は来年になるらしいが、それがどんなに悲惨な数字になろうとも包み隠さず(長野冬季五輪のように、決算書類を焼却したりせず)発表してほしいものだ。
ある週刊誌の報道によれば東京都民1人あたり10万円以上の税金がかかったとも言われているが、正しい数字が発表され、東京都(都税)と日本の負担金(国税)やIOC(国際オリンピック委員会)の負担金など、全ての金額が明らかになってこそ、今後のオリンピック大会のあり方や、2030年冬季五輪招致を目指す札幌市にとって、重要な遺産(レガシー)となるはずだ。
そんななか、最近発売された後藤逸郎・著『亡国の東京オリンピック』(文藝春秋・刊)という一冊で、興味深いデータを発見した。
それは著者を相手に一橋大学大学院教授の坂上康博氏が語った次のような言葉だ。《(戦後日本が独立した)1952年以降で計算して58年4か月、実に84%にあたる期間をオリンピックの招致運動あるいは開催に向けての準備に費やしています》
最も間隔の空いたのが1972年の札幌五輪後の5年半。それ以外はほとんど常に日本のどこかの都市が五輪に関わってきたわけで、《日本はオリンピック中毒、あるいは依存症》と言えるほどだ。
五輪招致に手を挙げたのは、東京が4度、札幌4度、長野、名古屋、大阪が各1度。なぜそんなに五輪招致に手を挙げたかというと、五輪招致となるとスポーツ関係の予算が取れたから。
逆に言えば、オリンピックという「錦の御旗」が存在しないと予算が出ず、日本のスポーツはそれだけ存在が認められていない−−必要不可欠で大切な「文化財」として認められていない、と言えるのだ。
アメリカのメジャーリーグのスタジアムや、ヨーロッパ各国のサッカーリーグのスタジアムなどは、多額の税金の補助が出ていたり、全額が税金によって建設され、その後の運営はチームに任されているものがほとんどだ。
それは、人々が豊かで人間的な生活を営むうえでスポーツを欠かせない重要な「価値あるもの」と、国(国民)や各都市(住民)が考えているからだが、日本では明治時代に欧米からスポーツが伝播して以来、スポーツがそのような大切な存在だとの共通認識はいまだに生まれていない。
だから日本の多くのスポーツは、企業が主催したり所有したりして、宣伝や商品の販売拡張に利用するばかり。スポーツを独立した「文化」(みんなで協力して創り育てるもの=カルチャー= Culture)として扱ってこなかった。
その結果、一私企業の所有物の活動に税金を投入するわけにもいかず、オリンピックという「錦の御旗」が必要だったと言える。
では、どうすれば良いのか? ここらでオリンピックから離れ、日本のスポーツのあり方を考え直し、改革することに舵を切るべきだろう。
(付記:このコラムでは紙幅の関係で割愛しましたが、日本のスポーツを「企業の所有物」として最も発展を妨げているのは、企業としての新聞社やテレビ局などのメディアだと言えますね。日本のメディアは、早くスポーツを所有したり主催したりすることをやめ、ジャーナリズム(報道者・批判者)として日本のスポーツ界の発展に寄与してほしいものです)
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