日本人はスポーツを知らない……、スポーツとは何か? と訊かれても答えられる人は甚だ数少ない……、それこそが、2020年東京オリンピック・パラリンピックを開催するにあたっての最大の課題である……といった趣旨の文章を、本誌春号に書いた。
今回は、では、何故そんなことになってしまったのか、ということについて、書かせていただく。
「スポーツ sports」とは、もちろん外国語であり、外国の文化を輸入したものである。
明治初期の文明開化で、他の多くの輸入文化と一緒に、日本に伝播した。輸入文化は、すべて日本語に翻訳されて日本人に消化吸収され、日本の文化として定着した。政府、内閣、国会、民主主義、社会主義、経済、哲学、文学、物理学、保健、福祉、鉄道、蒸気機関車、駅、自由、平等、博愛、恋愛……等々、じつに様々な日本語が、既成の言葉が流用されたり、新しく造語として作られたりして、外国文化の訳語として定着し、やがて訳語であるということが忘れられるほどに、日本の文化として、日本語として、定着した。
が、残念ながらsportsという言葉には、適当な訳語としての日本語が存在しなかった。
スポーツの訳語として一番最初に文献に登場したのは「釣り」だった。おそらく海か川で釣り糸に垂れている外国人に向かって、英語のできる日本人が、What
are you doing? とでも訊いたのだろう。そして、I'm playing a sport. という回答を得た。だから「スポーツ=釣り」と納得され、翻訳された。続いて「スポーツ=乗馬」という訳語が現れる。これもおそらく馬に乗っている外国人に、英語のできる日本人が、What
are you doing? と訊き、I'm playing a sport. という回答を得たに違いない。
ここで明治のインテリは、戸惑ったに違いない。「釣り」も「乗馬」も「スポーツ」ならば、スポーツとはいったい何なのか? それがわからなくなってしまった。
そんなところへ、東京大学に赴任したイギリス人教授のフレデリック・ウィリアム・ストレンジという人物が、『Outdoor Games』という本を出版し、陸上競技(競走、幅跳び、高跳び等)、水泳(クロール、背泳ぎ等)、ホッケー、フットボール、クリケット、野球、テニス……などを、「スポーツ」と称して日本に紹介する。この本のタイトルが、『戸外遊戯法』という題名に翻訳され、「ゲーム」も「スポーツ」も「遊戯」という訳語が当てられ、理解されるようになる。
しかし同時期、それら各種のスポーツ(特に陸上競技、体操、水泳等)が、兵隊の訓練や、兵士予備軍としての男子学生生徒の心身を鍛練する手段として活用されるようになる。と、「遊戯」という訳語では不適当ということになり、やがて「運動」とか「体育」という訳語が用いられるようになり、世の中に軍国主義の色合いが濃くなるに連れて、我々日本人のあいだに、「スポーツ=体育」という訳語が定着するようになった。
第二次大戦が終わり、戦後民主主義の時代になって軍国主義の世の中ではなくなっても「スポーツ=体育」という言葉は残った。という以上に、他に適当な日本語が存在しなかった。我々日本人のなかには、21世紀になっていまだに、「スポーツ=体育」だと思っている人も少なくない。
もちろん体育は、直接的には軍国主義とは何の関係もない、知育、徳育と並ぶ、青少年への教育の一種である。英語では、physical education――
文字通り、身体教育のことで、教育だから、義務が伴う。少々辛く苦しいことでも、指導者はやらせなければならないし、学生や生徒はやらなければならない。そうして身体を鍛えなければならない。強い兵士を目指すのではなくても、立派な大人になるためには、それが絶対に必要というわけではないが、やっておいたほうが(やらせておいたほうが)ベターだと多くの人が考えている。
一方スポーツは、元々の語源が、ラテン語のデポラターレ(deporatare)。日常生活の労働から離れた、遊びの時空間。余暇、余技、レジャーといった意味。その言葉が、中世にはディスポルト(disport)と変化。dis
もport(港・持ち運ぶ)も基本的に「離れる」というという意味で、やはり日常生活の労働から離れることを意味する。つまるところ「身体を用いた非生産的遊びの時空間」といったところか。
その言葉がスポーツsportsと変化した。そこには、冗談、慰み、気晴らし、戯れ、巫山戯、遊び半分……といった意味も加わり、あくまでも自発的で、命令されないことが、スポーツの大原則と言える。
これで「体育」と「スポーツ」という2種類の言葉が、まるで意味の異なっている言葉だということがおわかりいただけたと思うが、我々日本人は、今なお両者をあたかも同じ意味の言葉として、「体育」を「スポーツ」の翻訳語として用いている。
1964年に行われた東京オリンピックの開会式の日(10月10日)を記念して定められた国民の祝日(現在は10月第2月曜)は、「体育の日」と呼ばれている。が、英語の表記では、Health
Sports Day. つまり健康とスポーツの日。
また、国民体育大会は、英語では、National Sports Festival. そして、日本体育大学の英語名は、かつて、Nippon college
of physical educatin としていたのを、最近、Nippon Sport Science University に改められた。が、日本語名は、日本スポーツ・サイエンス大学とはならず、日本体育大学のままである。
これら「スポーツ」と「体育」という明らかに誤訳と言うべき言葉のあいだに生じる齟齬は、具体的な問題として表面化するまでになった。それが、最近2〜3年のあいだに、高校生のクラブ活動から日本代表の選手まで、次々と浮き彫りになった「体罰」の問題である。
あくまでも誰もが自発的に行うスポーツよりも、小中高大学の体育教育で実施されている、やらせなければならない体育(教育的スポーツ)のほうがはるかに浸透している我が国では、スポーツ(体育)は指導者の命令に従って行うものだという「常識」が蔓延っている。
そして指導者の指示と命令に従い、それを黙々と実行することが、スポーツマンに求められる「責任」であり「誠実さ」であり「正直さ」であり、それによって「忍耐力」や「礼儀正しさ」が養われるという教育(体育)が、体育として行われるスポーツを通して実行される。従って、指導者の指示と命令どおりに従わない(従えない)学生や生徒に対しては、身体で(身に染みて)理解させるために、体罰という手段が執られる。
その課程で根本的に無視され、排除され、忘れられるのは、スポーツの根本にある「自発性」である。自発的に参加し、自発的に考え、自発的に動く……。それがスポーツのはずであり、自発的にスポーツを行えるよう助けるのがコーチの役割のはずなのに、日本の体育の指導者は、そのような自発性・自主性を伸ばすことを教育とは考えず、自らの指示に従うことを教育だと思い込んでいる。それは、監督(先生・指導者)のサインに100パーセント従うなかでゲームが成立する甲子園での高校野球を見ればよくわかるだろう。
さらに、スポーツと体育をイコールで結び、スポーツを体育(身体を鍛える教育)の世界だけに閉じ込めた結果、知育としてのスポーツ教育も、徳育としてのスポーツ教育も忘れ去られてしまう(気づかれない)ことになった。
ベースボールの歴史を学べば、それはアメリカの歴史になり、アメリカ人の思考法を学ぶことにもつながる。フットボール(サッカー・ラグビー)の歴史を学べば、それはヨーロッパの歴史を知ることになり、南北アメリカの気候風土の違い、歴史の違いを学ぶことにもつながる。オリンピックの歴史を学べば、古代ギリシアの歴史と近代ヨーロッパの歴史、さらに現代世界の国際関係を学ぶことになる。そしてスポーツの誕生史を辿ると、それが民主主義制度の成立と深く関わっていることも学ぶことができる。が、スポーツを体育という一ジャンルに閉じこめておく限り、スポーツの持つそのような文化的知育的要素は、その存在すら誰も気づかず、活用しようという発想すら生まれなくなる。
道徳教育におけるスポーツの価値を説明するには、スポーツマンシップという言葉をあげるだけで十分だろう。オリンピックやワールドカップなど、多くのスポーツの現場から素晴らしいスポーツマンシップが示された実例を取りあげ、またはスポーツマンシップが踏みにじられた実例を取りあげ、スポーツマンシップについて考えることは、素晴らしい道徳教育に繋がるはずだ。
しかし、「スポーツ=体育」という捉え方をしているかぎり、身体を鍛えることや、試合に勝つことばかりが優先され、スポーツという文化の持つ豊かさは、ほんの一部しか青少年の教育に活かされなくなってしまう。また、長いあいだ「スポーツ=体育」という教育のなかで育って「体育教師」になった指導者は、「スポーツとは何か?」という問いに答えることもできず、そのことを考えようともせず、スポーツと体育の違いについても明確な回答を持たず、学生や生徒たちに、ただ体力を付けさせ、技術を身に付けさせ、試合に勝たせることに専念する……。そして体罰を是認したり、必要悪と考える指導者が、あとを絶たない……。
そんな現状のなかで、今年の秋にスポーツ庁が正式に発足することになった。3年前に誕生したスポーツ基本法に則して、2020年のオリンピック・パラリンピックを見据え、日本の国をスポーツで豊かにしようという「スポーツ立国」を目指すという。その基本方針に反対する理由は、私はないと思う。が、そのためには、まず「スポーツとは何か?」という勉強会と、「スポーツと体育は別物である」という広報活動から始めるべきだろう。 |