私はスポーツに関する原稿を書き始めた40年以上前から高校野球を批判し続けてきた。
いや、高校生の野球そのものを批判してきたわけではない。高校生がスポーツに打ち込むのは悪くない。が、現在朝日新聞社や毎日新聞社が主催している高校野球には、断じてスポーツ大会とは呼べない「異常」な出来事が多すぎるのだ。
夏の甲子園大会は気象庁発表の阪神地方の気温が35度を超え、炎天下の甲子園球場では40度を超し、NHKのテレビ中継でも画面の周囲に高温注意報と、屋外での運動の危険性を警告するテロップが流れるなかで行われる。
スポーツ大会なら、最も素晴らしいパフォーマンスが発揮できるよう、環境に配慮がなされるべきで、真夏の大会なら北海道の日高地方あたりでの開催されるべきだろう。マスメディアによって人気が煽られ、多くの人々の耳目を集める大会なら、甲子園球場と同じ建造物を北の大地に建設し、そこで盛大に大会を開催すれば地方の活性化にもつながるはず。高校生の移動交通費くらい、主催者新聞社が負担できるはずだ。
こんな意見を口にしたら、あるメディア関係者に嗤われた。涼しい場所で高校生に野球をやらせたら、どうなる? 下手なプレイが目立ってシラケるだけだ。
そうなのだ。高校野球には、高校生たちの稚拙なプレイを美しく覆い隠す汗と涙を絞り出す舞台装置が必要で、それこそギラギラと輝く真夏の太陽にほかならない。選手も観客も、涼しいグラウンドや観客席で冷静に野球と取り組んでいては高校野球にならないのだ。
だから熱中症の危険も省みず、この馬鹿騒ぎは続けられるのだ。開会式でプラカードを持つ女子高生や合唱団や吹奏楽団の高校生たち、それに応援席に座る観客や高校生のなかには、これまでに暑さで倒れた生徒が何人も出たと聞くが、幸い重症には至らなかったせいか(あるいは報道規制があったからか?)表沙汰になることもなく、おそらく将来も誰か犠牲者が出るまで、炎天下の開会式は(そして試合も)行われ続けるだろう。
この開会式という不思議な儀式も、スポーツには相応しくない「軍事教練」の残滓と言うほかない。
高校野球の全国大会がまだ存在しなかった頃の1911(明治44)年、野球が全国的に大流行したことから、東京朝日新聞が「野球と其害毒」と題した批判記事を22回(8月29日〜9月22日)に渡って連載。新渡戸稲造、乃木希典といった大物が登場し、「野球は巾着切りの遊技」「野球をやると馬鹿になる」「風紀が乱れる」などと大批判を展開した。
それに対して「野球は教育的」との反批判も巻き起こり、結局野球人気はますます高まった。その結果4年後の1915(大正4)年、大阪朝日新聞社が全国中等学校野球選手権大会、今の全国高校野球大会(夏の甲子園)を主催し、開催するに至るのだ。
東京と大阪で当時は「別会社」とはいえ、同じ「朝日」を名乗る新聞社が「野球害毒論」から「野球推進論」への180度の手の平返しをするに当たって持ち込んだのが「野球教育論」で、9人の選手が「一致団結して一糸乱れず」闘うことが如何に教育的かと主張。
試合開始前に両チームの選手がホームプレートを挟んで礼をすることや、帝国陸軍の閲兵式に倣った開会式での行進を取り入れた(他にも優勝チームにコンサイスの英和辞典が送られる「教育的配慮(?)」もあった)。
軍隊とスポーツの結びつきは高校野球だけでなく、かつてはオリンピックの開会式でも軍隊式行進が一般的だった。が、スポーツにとって何の意味もない「軍事色」は今では一掃されたはず。にもかかわらず高校野球では今も帝国陸軍式閲兵式の行進が、何の疑いもなく続けられているのだ。
いや最近では行進する高校球児たちは、指先を伸ばして腕を前後に振る帝国陸軍式ではなく、拳を握って腕を振るようになった。これは自衛隊の行進のやり方で、いったい誰がどのような意図でこのような自衛隊式行進を取り入れたのかわからない。が、主催者の高野連と朝日新聞社は、なぜこのような行進を行わせるのか、見解を明らかにするべきだろう。
神奈川県のある高校の野球部監督がこの軍隊(自衛隊)式行進を嫌い、地方大会の開会式で生徒たちに、両腕を頭の上にあげて観客席に向かって振り、喜びを表しながら行進してはどうか、と提案したことがあった。
生徒たちはその提案を受け入れ、予行演習で実行したのだが、その瞬間、激怒した高野連の関係者が飛んできて両手両脚を揃えて行進するよう命令したという。監督は注意されたが、なぜ軍隊(自衛隊)式行進をさせるのか、その説明はなかったという。
高校野球は理不尽なことばかり。テレビのアナウンサーは球児たちの「球に逆らわないバッティング」を誉め、守備位置までの(疲れるだけの)全力疾走を讃え、(意味のない)ヘッドスライディングを賞賛する。が、最近目に付く守備側の選手の走者への走塁妨害を指摘せず、1試合150球も200球も投げて肩や肘を壊す投手の「熱投」を批判しないばかりか、絶賛する。
それらが高校生らしい行為と信じているのか、通常の野球のプレイでは批判され、否定されるプレイを高く評価する言動は、「異常」としか言えない。
そして、それらのプレイを高校生にやらせて楽しんでいるのが大人の監督たちなのだ。野球の面白さの一つである作戦(采配)を高校生から奪い取り、彼らを手駒として扱い、勝利至上主義の成果を我がモノにし、小生自身も何度も目撃した体罰を繰り返している監督が、「名監督」だの「名将」だのと賞賛されて悦に入ってる姿を見るとウンザリする。
なかには、そうではない「先生(教育者)」もいるだろう。が、高校野球の指導者は練習での指導に徹し、試合はネット裏で観戦することにしてはどうか? 試合での監督の役割も高校生に委ねるのが真の高校野球だろう。そうすれば勝ちたいあまり投手に無理をさせる高校生監督も現れるだろうから、球数制限ルールを作ってやる、というのが大人の指導者の役割だろう。
いちど朝日新聞社発行の月刊誌『ジャーナリズム』の記者から「高校野球批判」の原稿を依頼され、書いたところが編集長にボツにされた。清く美しい高校野球以外の言説を許さないのであれば、そんな欺瞞的な大会は100回大会を区切りに一度中止して、すべてを考え直してみてはどうか。
そもそも高校野球は、春、夏、秋と試合数が多すぎる。高校球児に野球以外のスポーツをさせるのも悪くないはず。それに、そもそもジャーナリズム精神を貫くべきメディアは、ジャーナリズムを放棄してまでスポーツを主催するべきではないのだ。以上、まだ言い足りないことも山ほどあるが、反論があれば寄せてほしい。 |