コラム「スポーツ編」
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掲載日2010-10-13
この原稿は、『調査情報』2010年7・8月号(TBSメディア総合研究所)の特集「70年代から見えてくるもの」に書いたものです。久しぶりに書いた「長嶋茂雄」の原稿を“蔵出し”します。少々長いですが、じっくりお読みください。

1974年10月14日――長嶋茂雄がバットを置いた日

《現在》は《過去の結果》であり《未来の原因》である、という言葉がある。とはいえ、《過去》から《現在》が生じたことはわかるが、《現在》から《未来》を予知できるわけではない。そこで《歴史》の出番となる。《歴史》という一連の《過去》のなかでなら、この言葉は見事な説得力を持つ。たとえば1974年10月14日を《現在》とすると、そこから、どんな《過去》と《未来》のパースペクティヴが浮かびあがるのか。
 1974年10月14日。
 その日は「ミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄」が、現役選手として最後の試合に臨んだ日だった。

       *

 まず《個人史》から書かせていただく。
 その日、大学生になって三年目だった私は、世田谷区下高井戸付近の四畳半の下宿、二階建てモルタル・アパートの斜め前にある小さな喫茶店にいた。大学生とはいえキャンパスにはほとんど足を向けず、新聞に短いコラムを書いたり、「アングラの女王」と呼ばれていた歌手の事務所でアルバイトをしたり、劇団やミニコミの出版社に出入りしたり……。そんな毎日を過ごしていた。

 その日の一週間ほど前、「私たち」は後楽園球場で行われた巨人阪神戦に足を運んだ。「私たち」とは小さな喫茶店のママと、そこに出入りしていた学生連中のことで、真面目に毎日大学に通っていた学生や、時々ヘルメットをかぶってデモに参加していた学生、女性と同棲して修羅場を演じていた学生、いつの間にかアルバイト先に就職した学生など、約10名がレフトスタンドのポール際に陣取り、長嶋茂雄の強烈なライナーが2列ばかり前の座席に突き刺さったことに狂喜し、「長嶋の最後のホームランを間近で見た」ことに興奮し、満足していた。

 しかし、そうはならなかった。その日のダブルヘッダー第1試合で、長嶋は通算444号目の本当に最後のホームランを放った。そして2試合目の直前、グラウンドに飛び出し、後楽園球場の観客席沿いに一周し、ファンと別れを惜しんだ。その様子や第二試合の最後の打席を長嶋らしく併殺打で終わったこと、そしてあの有名なひとこと、夕闇のなかでの「わが巨人軍は永久に不滅です」と叫んだことを、私は喫茶店のカウンターの上に置かれていた小さな九インチの白黒テレビ画面で見ていたように記憶している。

 おそらく「私たち」は「長嶋茂雄の現役引退」を酒の肴に、いつものように夕方からビールやウィスキーで盛りあがり、ああだこうだと青い意見をぶつけ合っていたはずだ。面白いと思ったことなど一度もない大学なんか、さっさと辞めてしまえー! 俺は中退するぞぉ! と強く思ったことだけは、はっきりと記憶している。そして実行した。

 それが長嶋茂雄の引退に背中を押されてのことだったのかどうかは定かではない。が、その時代、小さな喫茶店に入り浸っていた「私たち」の誰もが、あの日、あのとき、自分が、どのような気持ちで、何をしていたか……ということだけは、いまも、はっきりと記憶している。

        *

《英雄》が《歴史》を切り拓くのか、《歴史》が《英雄》を生み出すのか。俄には判定できない。が、長嶋茂雄はプロ野球の《歴史》のみならず、あの時代の《日本の歴史》と見事に一体化していた。

        *

 戦前の職業野球は、神宮球場の早慶戦を中心とする大学野球や、甲子園球場の中等学校野球(のちの高校野球)とは比較にならないほど人気が低かった。という以上に、悲惨なものだった。作家の虫明亜呂無氏は、その様子を、『職業野球はこの世の果ての遊びであった。球場には退廃と淪落の風情がたちこめていた』(虫明亜呂無の本『時さえ忘れて』ちくま文庫より)と書いている。

 戦後アメリカ占領軍の後押しもあり、プロ野球人気は一気に上昇した。が、神宮球場や甲子園で活躍した選手たちの「OB大会」の印象は拭えなかった。長嶋氏自身も、「僕がデビューしたころは(略)山の手のちょっとした家庭の方とか知識人の方から見ますと、職業野球はマイナーな存在で、ローアーなイメージといいますか、そういう目で見られていたわけです」と語っている(拙著『定本・長嶋茂雄』文春文庫より)

 その「上下の立場」を逆転させたのが、1958年、神宮球場の満員の観衆をごっそり引き連れ、立教大学から巨人入りした長嶋茂雄だった。しかも通算8ホーマーの大学記録(当時)を樹立し、「学生野球にふさわしくないオーバーアクション」と非難されていた長嶋の派手なプレイは、プロ入り翌年4月の皇太子御成婚とともに爆発的に普及したテレビの画像とも完全にマッチした。さらに初の天覧試合(同年6月25日)でのサヨナラ・ホーマーへと続き、テレビと結びついた長嶋のプレイは、プロ野球を日本のナンバーワン・スポーツにまで引き上げた。

 時あたかも日本は高度経済成長時代(1955〜73年)。東京オリンピックの開催された1964年に一本足打法で55ホーマーの日本新記録を記録した王貞治とともに、「ON」を中心としたジャイアンツは、池田勇人首相の所得倍増計画(1961〜70年)と歩調を合わせるかのように9年連続日本一(V9=1965〜73年)を達成。

 子供たちは「巨人・大鵬・卵焼き」に熱中し、大人たちはブルドーザーが全速力で走り抜けるような高度成長の時代のさなかで、長島や王の活躍と巨人の勝利に憂さを晴らし、不満を解消した。そういえば地方からの出稼ぎ日雇い労働者が大勢暮らしていた山谷では、巨人の負けた日に限って暴動が発生した。

 そんな時代も1970年大阪万国博覧会で絶頂期を迎えたあと、73年10月には第四次中東戦争が勃発。1バレル3ドルだった原油価格は11.5ドルにまで暴騰。そのオイル・ショックが1971年のダブル・ニクソン・ショック(ドルと金の交換停止/ニクソン訪中とアメリカの中華人民共和国承認)に追い打ちをかけ、1ドル360円だった固定相場も変動相場制へと移行した(1973年)。日本経済は大打撃を受け、高度経済成長は長嶋茂雄引退の年の前年で幕を閉じた。いや、1956年以来長嶋茂雄の活躍とともに年率5〜12%と高い成長率を記録し続けた日本経済は、38歳の長嶋茂雄がバットを置いた年にマイナス0.5%を記録したのだった。

 すべては偶然の一致かもしれない。が、「戦後の申し子・長嶋茂雄」の活躍とともに日本は新しい時代に突入し、彼の現役引退とともに次の時代の幕が開いたことも事実だった。

 映画監督の大島渚氏は、長嶋茂雄を「硝煙の匂いの漂わない初めてのヒーロー」と表現した(『定本・長嶋茂雄』文春文庫より)。つまり終戦直後の特攻隊の生き残りや外地からの引揚者という英雄たちに代わり、戦争とは無縁のヒーローとして、「皇太子(現天皇)・石原裕次郎・長嶋茂雄」の3人が「戦後日本を牽引した」のだった。

 もっとも、長嶋茂雄に牽引された日本のプロ野球は、まだ、あくまでも巨人中心のプロ野球だった。たとえば長嶋茂雄が巨人入りした1958年、観客動員を前年(約138万人)よりも10万人増やした巨人は、V9達成の1973年には277万人と、アメリカ大リーグのチームをも凌駕する観客動員を記録した。が、同時期のセ・リーグ他球団の観客数は、60万〜100万人の間を増えたり減ったりしただけだった。

 そんな「巨人中心」のプロ野球に変化が生じたのは、長嶋引退のシーズンの中日、翌年の広島の優勝だった。さらに現役を引退した長嶋が監督となった巨人は、一年目に最下位に落ち込み、その翌年からは張本勲などの強力な選手補強によって二年連続リーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズでは阪急ブレーブスの前に連続して敗退した。

 長嶋の現役引退をきっかけに、パ・リーグ六球団を含む巨人以外の十一球団もマスコミの話題にとりあげられるようにもなり、ジャイアンツ・ファンだけでなく(アンチ・ジャイアンツでもない)多くのプロ野球ファンが生まれるようになったのだった。そして1976年からは、フジテレビ系列で『プロ野球ニュース』が始まった。それはプロ野球の勝敗だけでなく、ジャイアンツの話題だけでもなく、12球団の全試合をダイジェストで放送し、解説するという、過去には存在しなかった画期的な番組だった。

「ミスター・ジャイアンツ」も、いつの間にか「ミスター・プロ野球」と呼ばれるようになり、日本社会はバブル経済やその崩壊といった建設的ではない騒動を繰り返しながら、良く言えば安定期、悪く言えば低迷停滞期を迎えるようになったのだった。

        *

 長嶋茂雄とは、《時代》と無縁に考えても、《空前絶後》と断言できる素晴らしいプレイヤーだった。

 長嶋がランナーとして疾走するときは、腕を大きく前後に振り、両手の掌は大きく開き、小指の先までピンと伸ばしていた。スライディングのときはベースの5メートル以上も手前から、両脚を高く跳ねあげて飛び、全身で「大」の字を描いた。三塁手としての守備も、全身が躍動し、バットが空を切るときは、両脚が地面を踏みしめたまま、上半身だけが180度以上回転した。そのとき、ヘルメットは美しく空中に舞った。彼の引退後、その見事なフォームの写真がスポーツ雑誌『ナンバー』の表紙を飾ったが、某スポーツ新聞社のカメラマンが撮影したその美しい写真は、勝敗に無関係の「単なる空振り」だったので、ボツにされた一枚だった。

 その一事に象徴されるように、わたしたちプロ野球ファンは、試合の勝敗とはまったく関係なく、長嶋茂雄のダイナミックな一挙手一投足に酔いしれた。だから打撃成績では長嶋よりも王のほうがはるかに上だったが、長嶋の価値は微塵も下がるものではなかった。

 しかも長嶋は、打率が低いときでも素晴らしい勝負強さを発揮し、とりわけ3番王が敬遠されたときの4番長嶋は、必ずといっていいほどタイムリーを放った。3番王が頭にビーンボールの直撃を受け、担架で運ばれて退場した直後の打席では、4番長嶋は記憶に残る見事なホームランを放った(1968年甲子園球場での阪神戦)。あの一打は、大乱闘、退場、ビーンボールという殺伐とした空気を一気に吹き払い、巨人ファンも阪神ファンも、野球というスポーツの晴れ晴れとした爽やかさに、見事に気付かされた一瞬だった。

 王貞治というバッターは投手のわずかな失投を絶対に見逃さずホームランを打つのが見事だった。が、長嶋茂雄はピッチャーの最も得意とする決め球を打ち返した。ときにはワンバウンドするようなフォークボールをホームランしたり、高く外れたボール球を、信じられない大根切りで打ち返した。

 さらにバッター長嶋は、「打席に入るときに思いきり大きな音でオナラをした」とか、「今日も張り切ってプレーしましょう!」と叫んだとか……。オールスター戦で対戦したキャッチャーの野村克也からは、「呟いたり囁いたりすることで、王の心を迷わせることはできたが、長嶋には何を語りかけてもダメ。まったく動じない。何を考えてるかもワカランかった」という話を聞いたこともある。

 そんな野球選手・長嶋茂雄にまつわるエピソードはすべて、わたしが幼稚園の頃から大学生になるまで、主にテレビ画面を通じて目にし、感じていたことを裏付けるものだった。京都の実家が電器商だったので、物心のついた頃から自宅にテレビがあり、「日本で最初のテレビっ子」といわれる子供時代を過ごせたことは、いま思うと限りなく幸せなことだった。そこで目に焼き付けた長嶋茂雄の姿は、天衣無縫で、ダイナミックで、破天荒で、爽やかで……そういえば長嶋氏自身にインタヴューしたとき、自らの口から「アウトロー」という言葉が飛び出したことに、驚き、感動し、納得した。

「僕はアウトロー的なプレイヤーでしたね」
 アウトロー(out law)。無法者。社会秩序からはみ出した者。
 そのように自覚する人物がヒーローとして社会の原動力(ダイナミズム)になった時代。ヒーローにも原動力にもなることができた時代。それは確かに、時間(歴史)的にも空間(社会)的にも、ダイナミックで活気溢れる時代だった。

 しかし長嶋茂雄が選手(プレイヤー)でなく監督(マネージャー)になり、秩序と形式のなかで組織に収まらざるをえなくなったとき、一つの時代は幕を閉じ、別の時代の幕が開いたのだった。それが《現代(現在)》という時代なのだろう。もちろん《現在》にも「アウトロー」的な破天荒な実力者は存在しているのだろうが……。

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