2016年10月20日、ミスター・ラグビーと呼ばれた平尾誠二さんが53歳という若さで亡くなった。死因は癌。
多くの人が彼の死を悼んだが、その悼む声の多さに私は少々違和感を憶えた。それは彼が現役選手だった時代、あるいは日本代表チームの監督時代、彼に協力的だったラグビー関係者があまりに少なかったからだ。
1989年1月、彼が神戸製鋼スティーラーズのキャプテンとして初の日本一に輝き、連覇を重ねはじめたときは、明らかに不公平なジャッジが相次いだ。
当時の日本選手権は、社会人大会優勝チームと大学選手権優勝チームが日本一をかけて激突した。
が、大東大、早稲田、明治を次々と大差で撃破し、学生ラグビーが社会人の神戸製鋼に太刀打ちできないとわかると、レフェリーは明らかに大学生の肩を持つ判定を下すようになった。
「不公平なジャッジは学生のためにも日本のラグビーのためにもならない」と平尾さんは、この不当な判定に心底腹を立てていた。
そしてある年の日本選手権の試合直前、平尾さんがレフェリーをトイレに引っ張り込むという事件が起きた。その瞬間を見ていたのは私だけ。試合は神戸製鋼の完勝に終わり、彼にトイレでの出来事を訊いた。
「また同じような判定があったら試合を途中でやめますよ、と釘を刺しておきました」と、彼は笑顔で語った。
神戸製鋼が縦縞のユニフォームを着用しようとしたときは、「縦縞はラグビーに不適当」と使用を禁止された。
そのときも平尾さんは「アルゼンチンは縦縞なのに、単なるイジメですよ」と怒っていた。
神戸製鋼のフォワードの選手たちのプレイがラフプレイだと非難されたときも、「オフサイド・ポジションで倒れてる選手のほうが悪い。そんな選手は蹴られても踏まれても仕方ない。それがわからないようでは日本のラグビーは進歩しない」と、激しく反論した。
しかし溜飲の下がる出来事もあった。それは神戸製鋼が7連覇したあと、私が『平尾誠二・八年の闘い』という本を出版したときのことだ。
ラグビー協会の某幹部が、協会の許可のない出版は認めない、と横槍を入れてきた。平尾さんは「単なる言い掛かり。無視すればいい」と言ってくれたので、本は店頭に並んだ。
が、女性編集者は一応挨拶に…とラグビー協会へ赴いた。すると協会幹部に「くだらん本を出すな!」と怒鳴られ、本を体に投げつけられ、泣きながら帰ってきた。
その数週間後、日本代表の合宿に、当時ラグビー協会の名誉総裁をされていたヒゲの殿下(寛仁親王)がお越しになり、面白い本だからみんなで読みなさい、と拙著を自ら選手全員に配ってくださったのだ。
そして「君は素晴らしい男だねえ」と言われたという報告を平尾さんから直接電話で聞き、二人で快哉を叫んだのだった。
平尾さんが日本代表チームの監督になったあとも、愉快なこと、不愉快なことがいろいろあった。が、彼と語り合ったラグビー論、スポーツ論のすべてがスポーツ評論家としての私の血となり肉となっている。
形があってそれを破るとカタヤブリ。最初から形がないとカタナシ。どっちのラグビーを目指したい? と訊くと、平尾さんは即座に「カタナシ」と答えた。
「全員が自由にアドリブで動き全員がそれをフォローする。それが最高ですよ」
高い理想を抱いていた天才ラガーマンの早逝を心から悼む。合掌。 |