この原稿を書いているのはオリンピック・パリ大会の開幕直前。読者の皆さんが、この原稿を読むのはパリ五輪の開幕後。だからオリンピック史上初のスタジアム外で行われる開会式が、無事に行われたかどうか、読者の皆さんは既に御存知だろう。
セーヌ川を約6キロ、出場国の選手たちは船に乗り、ノートルダム寺院やルーヴル宮やエッフェル塔を眺めながら行進し、それを見物するパリ市民や観光客は、80カ所のパブリックビューイング含めて約80万人に及ぶというのだから、テロその他の妨害行為が起きなかったか? 警備は万全に行われたか? 「常識人」なら、心配して当然だろう。
しかし、我が国のメディア(特にテレビ)に携わる人々は、かなり常識から懸け離れた人物が多いようで、アメリカ大統領候補のトランプ氏が銃撃されるという大事件が起きても、オリンピックの話題は縮小されることなく、NHKも「パリで花咲け!」と、キャスターたちが笑顔で報じ続けていた。
しかも、NHKもそれ以外の放送局も、スポーツの面白さやスポーツマンの技量の素晴らしさを報じるのではない。「メダル候補」のスポーツマンの家族が紹介され、故郷が紹介され、どんな家で、どんな子供時代を過ごしたのか……等々が、紹介されるのだ。これは断じて「人間ドラマ」の紹介であり、断じて「スポーツ報道」と言えるものではない。
その典型的な「取材報道」が、ドジャース大谷祥平選手のロサンゼルスの自宅に関するフジテレビと日本テレビの「報道」だった。
それが「報道(とりわけスポーツ報道)」と呼ぶに値するシロモノではなく、単なる「(日本人のなかでも低俗な人たちの)覗き趣味」をくすぐるだけのゲスの極みと言える情報に過ぎないことは明白だ。
この「報道」を「批判」したメディアのなかにも、《水原一平元通訳(39)の違法賭博騒動もありましたから、メディア側も野球以外のことを取材せざるを得ないところはあったでしょうが……》など言う言い訳(エクスキューズ)があったが、これほど的外れな記述もあるない。
もしも水原と大谷が今も連絡を取り合っているかもしれないと考えた取材記者が、大谷の自宅にベタバリした(24時間貼り付いた)としても、自宅を空撮したり、場所を特定できるような情報は流すべきではないだろう。
最近の都知事選でも「表現(報道)の自由」を叫ぶ候補者が、選挙とは無関係としか思えないポスターを貼って「表現の自由」を主張した。
小生は、主に雑誌記者として半世紀以上働いてきたが、「表現の(無制限の)自由」など存在しないと考えている。
他人や社会に迷惑がかかるような記事は、書いてはいけないと思っている。ただし権力者としての個人は傷つけても、それが社会のために有益になるときは、それは書くべき記事だと考えている。
だから無前提的に、あるいは無制限に「表現の自由」を主張する人に対しては、疑いの眼で見ている。
さらに、間違った情報(知識)の上に立っての「表現の自由(の主張)」などチャンチャラおかしいと思っている。
大谷の新居に関するネットの声のなかにも次のような記述があった。《大谷のような世界的有名人なら、新居を見てみたいと思う人も多いかもしれないが……》
小生は、大谷の新居など見たいなどとは思わないから、この記事を書いた人に言わせると、小生は少数派と言うことになるのだろう。が、この文章の決定的な間違いがわかりますか?
それは《世界的有名人》という言葉です。この筆者は「世界的」という言葉を、南北アメリカ大陸とカリブ・太平洋諸島とオーストラリア、それに東アジアという野球が人気のある諸国に限っているわけですね。
最近はヨーロッパでも野球の人気が上昇し、インド・イスラム圏でも野球のプロリーグが始まったが、アフリカ諸国やイスラム諸国、ロシアや中央アジア諸国では、"Ohtani
who?"の状態と言えるでしょう。
それでも「便宜上」軽い気持ちで、大谷を「世界的有名人」と書いてしまう気持ちは、わからないでもない。が、その間違った認識を「新居を見たい」という覗き趣味に結びつけ、それをメディアの報道すべき情報だと思っているとしたら、日本のメディアは完全にジャーナリズム精神を失い、どん底まで落魄れてしまったかと嘆くほかない。
大谷の「自宅報道」で観光客や覗き見したがる人々がやってくるようになり、大谷夫妻は引っ越すことになったらしい。ならば、大谷夫妻には、日本テレビとフジテレビに対して、慰謝料と引っ越し費用を要求する訴訟を起こしてほしと思う。煩雑なことは嫌だろうが、日本のメディアを少しでも反省させてジャーナリズム精神を取り戻すキッカケを作ってもらえればいいと思うのだが……。
もしもメディアが、スポーツ・ジャーナリズムとしての精神をまだ持ち合わせているのなら、三冠王も狙え、打率とホームラン数でトップを走る大谷が、なぜ打点が少ないかという分析してほしいと思う。1番打者だから? というのは違うようで、彼はソロホーマーが圧倒的に多いのだ。その理由は何故?というのは、小生もいま調べている最中だが、よくわからない(仮説でも、わかったら、報告させていただきます)。
日本のメディアの「スポーツ報道」について「ファンの感動ポルノの中のアスリートと、リアルは違う」と批判したのはマラソンの大迫傑選手だった。コロナ禍で東京五輪の開催が危ぶまれたとき、他にもマラソン大会は多く存在するにも関わらず、「東京オリンピックというストーリーづくりが目立ちすぎ」と続けた彼は、「ポルノ」のように過激で扇情的だが、次々と忘れ去られるメディアの創り出す「感動」を、「感動ポルノ」と鮮やかに批判したのだ(山本敦久『アスリートたちが変えるスポーツと身体の未来』岩波書店より)
平和運動であるはずのオリンピックをメダル争いでしか語れず、アスリートの素晴らしい身体の動きを「感動ポルノ」でしか語れないメディアを改革する方法は……?
その回答を見つけない限り、メディアの堕落は止まらないだろう。
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