今年もまた「夏の高校野球」が開幕した。6月18日の沖縄大会を皮切りに8月22日甲子園での全国大会決勝まで約2か月間続く大会だ。
私は、スポーツに関する原稿を書き始めて以来半世紀のあいだ、高校野球のあり方を批判し続けてきた。
全国で約3600校の高校が参加し、1試合(1回戦)を終えただけで、半数の学校が消えてしまう。これが学校教育としてのスポーツと言えるのだろうか?
スポーツは本来トーナメント(勝ち残り方式)で行うものではない。トーナメントとは、もともと鎧に身を固めた騎士による「馬上槍試合」のことを意味する言葉で、槍で突かれて落馬し、傷ついた騎士は二度と試合に戻れなかった。
が、スポーツは一度試合に敗れても、相手に再度挑戦できる。そして再戦するうちに、一度敗れた相手に勝つ方策を発見できたりもする。
そうして成長するのがスポーツの素晴らしさのはずで、一発勝負は見物客の興奮を煽るだけで、高校生の成長には一切寄与しない。だからトーナメントではなく実力で区別したグループのリーグ戦を……と主張すると、必ずスケジュール上無理と反論された。
そんなことはない。秋から春・夏にかけての土曜日曜を使ったスケジュールならリーグ戦が十分可能だとこちらも反論すると、春のセンバツと夏の甲子園は主催者が違うと言われた。
が、主催新聞社の都合が、高校生の教育と健康よりも優先すると言うのだろうか!?
それに私が最も批判したいのは、ベンチの監督(大人)の存在だ。 試合の作戦を考えることは、野球というスポーツのなかでも最も面白く、楽しい行為と言える。が、それを高校生自身にやらせず、大人が奪ってるのだから高校野球とは名ばかり。
高校野球とは、高校生を使って大人が楽しむ野球なのか? と言いたくなる。
大人(監督)は練習時の指導だけで、試合は高校生に任せ(考えさせ)、ネット裏に退き、高校生を見守るべきだ(彼らの健康管理に徹するべきだろう)。
そんな意見をある高校野球の監督にぶつけたところが、「高校生に(作戦を任せること)は荷が重すぎる」と言われた。
「重い荷」とは何か? 勝利することか? その「勝利至上主義」こそ大人たちが高校生のために排除してやらなければならない「重荷」だろう。
勝利は目指すべき目標ではあっても「至上の価値」ではなく、単なる結果だ。にもかかわらず勝利や優勝を大騒ぎするメディアや、学校の宣伝に使う高校の姿勢こそ改められなければならないはずだ。
昨年、日本高等学校野球連盟(高野連)が試合での投手の球数制限を「1週間500球」と発表した。そのとき、私は呆れ返って言葉を失った。
それはメジャーリーガーやプロ野球選手でも許されない酷使であり、高校生を痛めつけるだけのルールだ。
今ウクライナでロシアの戦争犯罪を告発する証拠を集めている国際人権団体HRW(ヒューマンライツウォッチ)は、昨年日本の学校スポーツを「軍隊的(ミリタリー)」と非難する声明を発表した。が、それを高校野球と結び付けて報じたマスメディアは皆無。
開会式は軍隊式行進(以前は帝国陸軍式に手の指先まで伸ばして腕を振っていたが、最近は自衛隊式に拳を降る学校も増えた)。高野連はスポーツ組織として許されないはずの男女別組織。ネット裏4200円はプロ並みの入場料。
しかしそれらを批判せず、メディアが主催者としてプロ興行のように開催する甲子園大会は、一度廃止し、文科省とスポーツ庁が高校生のためになる新たな組織と大会を考え、創り直すべきではないだろうか?
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