プロ野球選手をはじめとする日本のスポーツ選手が現役第一線でのスポーツ活動をやめるとき、彼ら自身も、われわれ周囲の人間も、その行為を「引退」という言葉で呼び表している。「引退」とは、改めていうまでもなく「引いて退く」ことである。
同じ行為を表す英語は"retirement"で、「リタイヤ」という言葉は、外来の日本語としてもよく使われる。が、アメリカのメジャーリーグで活躍するプレイヤーたちは、その言葉ではなく"adjustment"という言葉を用いる場合がある。「アジャストメント」とはなかなかに含蓄のある言葉で、日本語に置き換えると、「精算」という意味と同時に「適応」という意味もふくまれている。
メジャーリーガーたちは、ただ単に「引いて退く」のではなく、「精算」し「適応」することを意識して「その日」を迎えるのである。
スポーツ選手の引退劇で、わたしが最も印象に残っているのは、やはりミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄の「最期」である。といっても、あの名台詞「巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残した引退式のことではない。
38歳になってバッティングにもフィルディングにも衰えを隠しきれなくなった1974(昭和49)年。その最後のシーズンに、長嶋茂雄は公式戦で初のトップバッターを経験した。「4番サード長嶋」が1番を打ったのだ。いや、打たされたのだ。
これには、驚いた。
当時の川上哲治監督は、打棒不振に悩む長嶋に「気分転換」をさせようと思ったのだろう。そのようなコメントがメディアに流れたことを記憶している。そして川上監督は、5月19日の対中日戦で長嶋を初めて1番の打順に据えたあと、合計30試合にトップバッターとして起用した。
が、この打順を、当人は喜ばなかった。
「リードオフマンというのも悪いポジションではないですが、やっぱり『4番サード長嶋』という言葉が定着していましたし、3は好きな数字なので3番も悪くないのですけど、1番というのはちょっと、私じゃないという感じがしましたね」
のちに長嶋氏自身にインタヴューしたとき、彼は苦笑いしながら語った。
ミスター・ジャイアンツとしてクリン・アップを務めてきた長嶋茂雄にとって、1番では現役生活のアジャストメント(精算)ができなかったにちがいない。
長嶋氏のみならず、スポーツマンの多くは、なかなか思い通りのアジャストメントができないように思われる。
世界王座13回防衛という(不滅とも思える)日本記録を残した元世界ジュニア・フライ級チャンピオンの具志堅用高も、それに失敗した選手だった。
昭和55(1981)年、最後の試合となった14回目の防衛戦は、彼の生まれ故郷である沖縄で行われた。相手は13回目の防衛戦で15ラウンド判定勝ちしたペドロ・フローレスとの再戦となった。
その挑戦者の来日後のスパーリングを見たボクシング記者は、誰もが具志堅の楽勝を信じた。ベタ足でフットワークも鈍く、押すようなパンチしか打てないフローレスが、具志堅の敵ではないと思われた。しかも、タイトルマッチの舞台裏では、いつもの世界戦とは異なる事情が存在していた。
じつは、このとき具志堅は、試合前から引退を決意していた。毎年3〜4度の防衛戦を繰り返した結果、彼の身体はボロボロに疲弊していた。当時の協栄ジムの会長である故・金平正紀氏との不仲も、公然の話題となっていた。そこで金平会長は、挑戦者捜しに神経を使い、確実に勝てる相手と再戦させ、具志堅に快心の勝利をプレゼントしたうえで彼の心を翻らせ、あと数回の防衛戦をプロモートしようと企んでいた。
が、具志堅の決意は固く、親しいトレーナーや仲間には、どんな結果になっても引退すると口にしていた。そこで、彼の仲間はある計画を立てた。それは、おそらくKOで簡単に勝負がつくと思われる試合の直後、リング上で具志堅にマイクロフォンを握らせ、「僕はこれで引退します。皆さんありがとうございました」と挨拶させることにしたのだ。
そうでもしないと、海千山千のプロモーターである金平会長の粘り腰に勝つことはできない。だから、仲間の連中に金平会長がリングに登るのを阻止させ、その間に具志堅はマイクを握り、直接ファンに向かって呼びかけることで既成事実を作り・・・。
しかし、この計画は実現しなかった。
弱いはずの挑戦者フローレスにも、たったひとつだけ長所があった。それは低い姿勢から前へ出る、という彼のボクシング・スタイルだった。全盛期の具志堅なら、素早くサイドステップを踏んで横から攻撃できたが、そのときの具志堅は動きが衰えていた。引退を決意し、モチベーションも下がっていた。
そのため頭から突っ込んでくるフローレスに対してまっすぐ後ろに下がってしまった。堅い頭頂部にはパンチも効かない。それどころかパンチを放つ手の指が故障する。そうして具志堅はロープへ追いつめられ、フローレスの鈍いパンチをいやというほど受けてしまったのだった。
その結果、具志堅は彼の望み通り、「リタイヤ(引退)」することができた、ともいえるかもしれないが、地元沖縄での敗北は、彼の「アジャストメント(精算)」とはならなかったにちがいない。
あらゆるスポーツのなかでも、ボクシングはアジャストメントが最も困難な競技といえるかもしれない。
世界のスーパースターとして3度王座に輝いたモハメド・アリの復活劇も、いまでこそ伝説として語り継がれているが、その当時はブーイングも大きかった。
じっさい晩年のアリの試合内容は悲惨なもので、「蝶のように舞う」といわれたフットワークは亀のようなベタ足にまで衰え、「蜂のように刺す」といわれたパンチも出ないまま、クリンチだらけの揉み合いばかりが目立つ、まったく情けないものに変貌していた。
それでも試合をしなければならなかったアリに、どのような名誉欲や金銭的事情(あるいは彼の所属していた宗教団体との政治的事情)があったかはさておき、晩年のアリの3度目の「復活劇」には世界中の人々の注目が集まった。もちろんアリのボクシング内容に注目したわけではない。
誰もが注目したのは、2度の引退宣言のあとも、リング外の生活にアジャストメント(適応)できなかったチャンピオンが、どのようなアジャストメント(精算)をするのか、ということだった。
しかし、その結末を多くの人々は記憶していない。最強といわれたフォアマンをKOしたときの復活劇は、いまも多くの人々の記憶に残っている。が、その後敗れたスピンクスにリターンマッチで判定勝ちしたことや、さらにその後、王者のまま引退したあと復帰してラリー・ホームズに挑戦し敗れたことなどは、多くの人々の記憶から消えている。
プロ・スポーツマンのアジャストメントとは、そんなものかもしれない。
「鉄人」と呼ばれてルー・ゲーリッグの連続試合出場記録を破り、国民栄誉賞に輝いた衣笠祥雄も、その記録を破るときには2割にも満たない打率に苦悩し、彼独特のフルスイングをやめて流し打ちを見せたことがあった。
ホームランを打てなくなった王貞治も、最後となったシーズンには、それまで22年間素手でバットを握っていたその手に、革手袋をはめて打席に立ち、周囲を仰天させたうえ、王シフトでがら空きになったレフト方向へ打球を流し打ったことがあった。
全盛期の輝きがキラキラと明るかったスポーツマンほど、晩年の苦悩は、より重く、より深く、暗くなる。一流と呼ばれるスポーツマンにしか覚知できない理論を悟り、技術を身につけ、しかし身体の衰えという現実の前に、彼らは苦悩し、足掻く。その矛盾を克服し、美しくアジャストメントに成功した一流のプロ・スポーツマンを、わたしは知らない。年齢に打ち勝ったスポーツマンを見たことがない。
苦しみ、藻掻き、不本意なアジャストメントを迎えた一流のスポーツマンに対して、周囲の人間は、その苦悩と足掻きを忘れ、伝説を残す。それが、一流のスポーツマンから多くの感動をプレゼントされた周囲の人間にできる唯一の返礼といえるのかもしれない。
スポーツマンは、きわめて短い現役生活のなかに「青春・朱夏・白秋・玄冬」の四つの季節を過ごす。それはわれわれが過ごさなければならない長い人生そのものと同じ変節であり、一流のスポーツマンは、われわれに意義深い人生の過ごし方を教えてくれているのだ。
わたしの大好きなアメリカのベースボール・ライターであるロジャー・エンジェルはつぎのように書いている。
「人生のなかにベースボールがあるのではない。ベースボールのなかに人生があるのだ」 |