2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した。それをきっかけに日本のスポーツ界は、スポーツ庁新設の動きが本格化するなど、大きく変化しようとしている。そこで危惧されるのは、日本のスポーツ界とマスメディアの関係である。
たとえば野球。高校野球は朝日新聞、社会人野球は毎日新聞、プロ野球は読売新聞とのつながりが強いことは周知の事実。各新聞社は自らの紙面や系列のテレビ局・ラジオ局の放送などを通じて、自社のメディア・グループが主催・後援する野球大会を宣伝する。そして新聞の拡販やテレビ視聴率のアップにつなげ、利益を得ようとする。その結果どのメディアも、自社の関係する野球のイベントに対して真っ当なジャーナリズム精神(批判精神)を失い、逆に野球というスポーツの価値を損なったり、選手を傷つけたりしているというのが実状だ。
昨年(2013年)夏の高校野球は猛烈な酷暑のなかで行われた。予選では熱中症で倒れる選手が何人も出た。甲子園の試合では、NHKのテレビ中継の画面の周囲に戸外でのスポーツを避けるようにとの注意書きが流れたりもした。しかもそんな環境のなかで、延長10回183球もの投球をした投手が現れた。この2年生の投手は春のセンバツ大会でも、9日間で772球も投げていた。それは「メジャー投手なら平均6週間で投げる球数」だった(Number
Webより)。そして9月の秋季大会1回戦に先発し、右肘に違和感を覚えたこの投手は、MRI(磁気共鳴画像装置)検査の結果、右腕の尺骨神経痲痺で全治1ヶ月と診断された。
この事態に対してスポーツ・ジャーナリズムが真っ当に機能すれば、高校生の未来を奪う「球児虐待」的な行為を行わせたチームの監督や、それを黙認した主催者を糾弾する声が出るはずだ。そして投手に球数制限を設けたり、連投の禁止、あるいは日本体育協会の指針に従って気温35度以上の時の試合を禁じたり、夏の大会を北海道などの涼しい地方に移す……など、様々な改善策が新聞やテレビで打ち出され、検討されるはずである。
が、それらの声は一部のネット上で騒がれただけ。主催新聞社はもちろん主催でない新聞社も、またそれらの系列の電波メディアも、誰も高校野球のあり方を批判する声を(少なくとも大きな声は)あげなかった。つまり高校野球に関して、スポーツ・ジャーナリズムはまったく機能しなかったのだ。
……と書いていて虚しさを感じるのは、こういった問題を私は30年以上も前から書き続けてきたからだ。酷暑のなかでの投手の投げすぎだけでなく、高校生がすべて大人(監督)の指示(サイン)によって動かされ、自分で考える力が奪われていることや、夏の大会の予選のスケジュールと1学期末の試験期間の重なる学校が多く、勉強を等閑にしている(せざるをえない)野球部が少なくないこと……等々の事実を、私は雑誌に書いたり、テレビやラジオでも口にしてきた。
テレビ朝日の朝のワイドショーがプロ野球のストライキ問題(2004年)を取りあげたとき、コメンテイターとして出演した私は、次のような発言をした。「いちばんの原因は選手やファンの声に耳を傾けず、自分の利益ばかり考えている読売新聞の渡邉恒雄氏の存在です。が、誰もそのことを言わない。それは高校野球や社会人野球でも同じ。野球ではジャーナリズムが機能しない。それこそが最大の問題です」
その瞬間スタジオは凍りつき、他のコメンテイターは下を向き、司会者がさりげなく話題を変えたことを今も憶えている(その後その番組に呼ばれる回数が激減し、相撲や柔道やオリンピックの話題に限られるようになったのは、この発言が影響したのだろうか?)。
あるスポーツ好きのお笑いタレントが、次のように嘆く声を聞いたこともある。「政治批判や自民党批判はいくらでもできる。けどプロ野球批判、巨人批判、高校野球批判は、テレビやラジオでは絶対タブーですね」
ある地方の朝日新聞の支社から、スポーツに関するシンポジウムのコーディネーターを依頼されたときは、私の友人でもあるロバート・ホワイティング氏やマラソンの有森裕子さんなどが参加した。が、そのときパネラーの一人として参加した朝日の記者から、シンポジウムの前にこう言われた。「申し訳ないけど高校野球の話題が出たときは、私に振らないでください。喋りにくいですから……」
私は別にシンポジウムの主催者をわざわざ批判しようとも思わず、スポーツの素晴らしさを語り合うには高校野球を取りあげる必要もなかったので(という以上に、スポーツとしては取りあげることのできない話題だったので)、笑顔でその申し出を受け入れ、シンポジウムは楽しく有意義に終了した。
とはいえ、主催者からスポーツの話題の一つとして高校野球もテーマに取りあげてほしいと言われていたら、どうなっていただろう? 真夏の炎天下で行われる高校野球を断じてスポーツとは思っていない(もちろん体育教育とも思えない)私は、シンポジウムの仕事を断るほかなかっただろう。
じつは10年ほど前には、朝日新聞の運動部記者から、夏の甲子園大会開幕特集のエッセイの執筆を依頼されたことがあった。私は、仰天した。「私の意見を本気で書いてもいいの?」と訊くと、今度は相手が驚いた。そこで私は、原稿に書きたい中味の一部を電話の向こうの相手に披露した。すると執筆依頼はすぐに撤回された。私の高校野球論を知らない連中が、若いスポーツ記者のなかに出現したことを少し寂しく思いながら、私は一人で苦笑いするほかなかった。
しかし本原稿の依頼主と同様、確信犯的に自らのメディアのあり方(やり方)に疑問を持つ担当者から、仕事の依頼を受けたこともある。それは日本テレビのディレクターだった。先のテレ朝の番組に出たのと同じ年のオフシーズン、プロ野球はどうあるべきかというテーマで討論番組を作るので出演してほしい、との依頼を電話で受けた。
そのとき私は、その申し入れが信じられなかった。私が本気でプロ野球について発言すれば、渡邉恒雄氏批判にならざるを得ない。ドラフト制度もフリーエージェント制度の導入も、ジャイアンツに有利な「改悪」ばかり行い、ついにはすべての野球ファンの意見を無視して球団数の削減、1リーグ化に手を付けるなど言語道断……。そんな内容を、日本テレビで喋れるとは到底思えなかった。
ところがディレクター氏は、それを喋ってほしいと真剣に言う。ならば……と出演を快諾したが、本番の3〜4日前になって、やっぱり上司の許可が下りず番組は中止になった、との電話がかかってきた。残念ではあったが、私はさほどショックを感じなかった。という以上に(少々オーバーに言うなら)胸が暖かくなるのを感じた。自分と同じような考えを持つ人物の存在が嬉しかった。そのような人物が増えていけば、やがていつの日かマスメディアとスポーツの関係も改善されるときが来るに違いない。
メディアが既得権益を手放すことは考えられず、自らスポーツ・イベントの主催や後援から手を引いたり、球団を手放したりすることも、あり得ないかもしれない。しかしだからといって日本にはスポーツ・ジャーナリズムなど存在しえない、と悲観的に諦めるのではなく、現状では無理でもいずれ改善されるときが来る、と楽観的に未来を展望するほうが自分の心の健康にもプラスで、メディアとスポーツの関係改善に少しでも貢献する意見を言い続けることもできるに違いない。
「悲観主義は気分の問題だが、楽観主義は意志の問題である」という言葉を残した哲学者が誰だったかは忘れたが、ベルリンの壁でも崩壊したのだ。不合理なことは、やがて改善されるときがくるはずだ。
もちろん楽観主義だけで、問題が解決できるわけではない。注意しなければならないのは、無知から生じる誤解だ。あるいは誤解からさらに広がる無知だ。
高校野球と同様、マスメディアが主催者となり、スポーツ・ジャーナリズム(批判精神)が機能しなくなった結果、人気は素晴らしく上昇したが、どうも間違った方向に進んでいるとしか思えないスポーツに、駅伝がある。
その人気の頂点にあるのが箱根駅伝。正式名称は東京箱根間往復大学駅伝競走。主催は関東学生陸上競技連盟と読売新聞社。系列の日本テレビが1987年から毎年正月2日間にわたって生中継するようになって以来、正月の恒例行事として全国的な人気を博すようになった。ただし、これは全国規模の大会ではなく、あくまでも関東に本部を置く大学の駅伝大会である。全国規模の大学駅伝大会は、日本学生陸上競技連合・朝日新聞社・テレビ朝日・名古屋テレビ放送の主催する全日本大学駅伝(正式には、秩父宮賜盃全日本大学駅伝対校選手権大会)が、別に存在する。
しかし正月という時期、箱根という美しい景観のためか、駅伝といえば箱根と誰もが連想するほどの人気を集め、全国の優秀な高校生男子長距離ランナーの多くが関東の大学へ進学するような偏向した状況まで生み出してしまった。さらに20キロ前後の距離を必死になって襷をつなごうとする走り方や、標高差800メートル以上の箱根の山を駆けあがったり駆け下りたりする特殊な走り方が追求された結果、日本の優秀なランナーたちが「いくら駅伝が強くなっても、それがトラックや他のロードレースの結果に結びつかない」という状態に陥ったという(生島淳『駅伝がマラソンをダメにした』光文社新書)。
それは箱根駅伝だけのせいではない。「駅伝がマラソンをダメにしている」のは「陸上界では長く考えられてきた問題である。しかしあまり一般の人に触れられることはない。それはなぜか? 答えは簡単である。新聞、テレビといった報道機関が駅伝、マラソンを主催していて腫れ物に触ろうとしないからだ」(前掲書)ここでもマスメディアはスポーツ・ジャーナリズムを放棄してしまっているのだ。
しかし、日本の男子マラソンの低迷がさらに続き、箱根駅伝に対する批判の声が高まったとしても、箱根駅伝のファンはいなくならないだろう。肩を壊して将来を奪われる投手や熱中症で倒れる選手が何人出ようと、高校野球ファンはいなくならないのと同じだ。
寒風のなか晴れ着姿で見守る人がいる正月に、箱根路を走って美しい景観を見せてくれる箱根駅伝も、真夏の太陽が眩しく輝くお盆の時期に、全国から坊主頭の若者たちが甲子園に集う高校野球も、どちらも素晴らしい舞台装置を備えた魅力あふれるイベントではある。だから人気があり、マスメディアはその人気(利益)を手放すことができないでいる。
一方、スポーツという規準で見直すと、どちらのイベントも欠陥だらけで、けっしてスポーツとは呼べない要素が数多くあることに気付く。改めて言うまでもなく、箱根駅伝のような激しい高低差の坂道を走るロードレースは、国際ルールの長距離ロードレースとしては公認コースと認められていない(記録が承認されない)。アメリカでは投手の球数制限も当然設けられている。だからマスメディアはスポーツ・ジャーナリズムを放棄しなければ、それらのイベントを主催できない、とも言える。両者は「日本独自のスポーツもどきの(スポーツとは似て非なる)イベント」と言うべきかもしれない。
そもそもスポーツとは、我々日本人にとっては明治初期の文明開化期に欧米から伝播した輸入文化であり、「スポーツとは何か?」と問われて、すぐに自信を持って答えられる人は少ない。学校の体育の授業でも「スポーツとは何か?」ということは教えてくれない。だからいまでも、体育とスポーツの区別の付かない人も多い。さらに、「体育の日」「国民体育大会」「日本体育協会」「日本体育大学」といった言葉が「Health
and Sports Day」「National Sports Festival」「Japan Sports Association」「Nippon Sport
Science University」の訳語として存在するため、本来はまったく異なる概念の「スポーツ(Sports)」と「体育(Physical Education)」が、あたかも同一のものであるかのような誤解まで蔓延している。
ここでは簡単に、スポーツとは誰もが自発的に楽しんで行うものであり、体育とは若者の心身を鍛えるために強制的に行わせる身体運動、と説明しておくが、この異なる2種類の身体活動を「スポーツ=体育」と誤解するところから、ますますスポーツに対する無知が増幅されることになる。
たとえば「バレーボールとはどういう意味か?」と問われて、それはVolley Ballで、テニスのボレー(volley)や、サッカーのボレーシュート(volley
shoot)と同じ。ボールを地面に落とさないでプレイするスポーツ……と答えられる人が、はたしてどれほどいるだろうか?
同様に、サッカーとはどういう意味か? サッカーはなぜ足しか使ってはいけないのか? ラグビーはなぜボールを前へパスしてはいけないのか? テニスとはどういう意味か? テニスはなぜ15・30・40というポイントの数え方をするのか? 野球で左腕投手を何故サウスポー(南の手)と呼ぶのか? アメリカでgame
over という言葉を、日本では何故ゲームセットと言うのか?……などなど、スポーツには即座に答えられない疑問、学校の体育の授業で教わらなかった問題が、山ほど存在する。
それらの疑問に対する回答は、心身を鍛えるのが主眼である体育では不要と考えられてきたのだろうが、そのような理屈を知らなくても、スポーツを、見て、やって、楽しむことができるのも事実である。しかしスポーツ報道やスポーツ・ジャーナリズムに携わる人間がそんな無知では、ジャーナリスト失格、スポーツ・ジャーナリスト失格というほかない(元の原稿には書かなかったことをここでヒトコト挿入します。朝日新聞社ジャーナリスト学校は、今書きあげたようなスポーツに関する基礎知識を教えているのでしょうか? また教えられる人が存在しているのでしょうか? 朝日新聞社ジャーナリスト学校が発行する月刊誌『ジャーナリズム』の編集長は、スポーツもテーマに扱うジャーナリストとして、当然基礎知識を身に付けておられるでしょうが……)。
スポーツのルールや技や、その呼称などは、遠い過去に成立した結果、いまでは推測や想像で語るほかないものもある。が、それらには、すべて理由がある。スポーツとは人間が創りあげた文化であり、そこには人間が歩んできた歴史の足跡が刻み込まれているのだ。それを知らずに、スポーツを伝え、語ることなどできないはずだ。
もちろん日本の高校野球やプロ野球や箱根駅伝やその他の駅伝大会も、日本の文化と言える。が、それらは、はたして「スポーツ文化」と呼べるものかどうか。その検証をすることも、ジャーナリスト、スポーツ・ジャーナリストの仕事と言えるだろう。そのためにはジャーナリストやスポーツ・ジャーナリストは、「スポーツとは何か?」という命題に対する回答を身に付け、とりわけ体育とスポーツの違いについては、きちんとした認識を身に付ける必要があるはずだ。
2020年2度目の東京オリンピックとパラリンピックの開催を、私は「体育からスポーツへの大転換」ととらえている。1964年のオリンピックでは、パラリンピックの存在が誰の記憶にも残らないほど小さく、多くのオリンピック選手は大学の体育会系組織で鍛えられ、スポーツ以外の社会でも体育会系的営業マンのモーレツ・サラリーマンが国内で活躍し、高度経済成長を担った。
しかし2度目の東京五輪を前にした現在、体育会的上意下達の縦組織では体罰問題が表面化し、多くの子供たちは地域のスポーツクラブに通い、そこから優秀な選手も輩出されるようになってきた。身障者スポーツに対する注目度も飛躍的に上昇してきた。そして一般社会でも上司の命令で動く体育会系的人間は少なくなり、自分で企画を考え、自分で状況を判断し、自分で行動する、世界で通用する人物(スポーツ・インテリジェンスの持ち主)が求められるようになってきている。
監督(大人)のサイン(命令)で動くことの多い高校野球や、世界に通用しない闘いを国内で繰り広げる箱根駅伝は、将来的に社会からどのような評価を受ける存在になるのだろう? スポーツとは異なる(似て非なる)イベントと理解されたうえで、愛され続けることになるのだろうか?
また、全国高等学校野球連盟はスポーツ庁の管轄下に入るのだろうか? あるいは、それを拒否して、教育機関として文科省に残ることを主張するのだろうか? 野球とソフトボールは、国際的には「ダイヤモンド・ゲーム」と称して一体化し、東京オリンピックから正式競技として復活の可能性も出てきたが、国内では、両者はどんな組織になるべきだろうか?
そんな日本のスポーツ状況に対して、一つ一つ指針を示すのも、もちろんジャーナリストやスポーツ・ジャーナリストの仕事である。そして、その判断を正しく下すためには、やはり「スポーツとは何か?」という命題について、深く学び、考えなければならないはずだ。間違っても自分の属するメディアの利益を規準にした意見を述べることだけは、避けなければならない。でなければ、「体育からスポーツへ」という日本社会の素晴らしい大転換が、中途半端に終わってしまうだろう。
「体育からスポーツへ」……大転換が、日本のスポーツとマスメディアの関係に対して影響を及ぼし、両者の関係が改革され、近い将来、日本のスポーツがマスメディアの支配から独立する日が訪れるのでは……と考えるのは、あまりにも楽天的すぎるだろうか? |