かつて蓮實重彦(草野進)は「野球の世界」に「野生の思考」(パンセ・ソヴァージュ)を持ち込み、1点を取ってチームを勝利に導くような近代合理主義的野球を否定し、「乱闘」や「爽快な失策」や「豪快な三振」といった「野蛮」な行為を積極的に肯定し、そこに野球の「美」を見出した。巧みな比喩を多様に採り入れた彩り鮮やかな華麗な文体によって、新しい思想は新しいレトリックに宿ることを見事に実践するなかで、日本の野球評論に大きな衝撃を与えた。
いわばレヴィ・ストロースの仕事を野球の世界に持ち込んだわけだが、小生もスポーツライターの一人としてその衝撃に打ちのめされたものだった。が、そのとき同時に、奇妙な居心地の悪さを感じたのも事実だった。
その居心地の悪さとは、いったい何だったのか?
それが新しく刊行された本書(『スポーツ批評宣言』青土社)を読んで、自分なりに納得できた。
《運動の「美しさ」だけで勝てるかどうかわからないけれども、運動の「醜さ」が露呈すれば必ず負けるいうのがスポーツの厳しさです》
蓮實(草野)の書くスポーツ論はすべて正しい。スポーツ選手やスポーツ・メディアやスポーツ・ジャーナリズムに関して書かれた部分には個人的に異論もあるが、スポーツそのものを論じたものは「すべて正しい」と断定して間違いない。
《何が「運動」を美しさへと変化させるのでしょうか。それは、潜在的なものが顕在化する一瞬に立ち会い、その予期せぬ変化を誰もが自分の肌で感じるということなのです》
お見事! と私が書くのも気が引けるが、これはスポーツの素晴らしさ(さらには人間の「生」の素晴らしさ)をたった一行で書きあらわした見事な文章だと舌を巻くほかない。
が、次の「正論」は、どう読めばいいのだろう?
《醜さは失点につながることから、人は「醜さ」を忘れ、失点のみを思い出す。人々が「ドーハの悲劇」と呼び、一部の人間や私自身が「ドーハの天罰」と呼ぶあの「醜い」ゲームの神話化は、あの瞬間にフットボールの神々が日本チームを見放したという厳粛な事実を忘れようとすることにほかなりません》
この文章にも間違いはない。が、ドーハでの日本代表選手として最後の最後に単純なパスミスを犯した選手も、また、他の選手たちも、さらに「神話化」に走ったスポーツ記者やサポーターたちも、そのくらいのことはわかっているのではないか?
もちろん、すべての人間がわかっているとはいわないし、わかっているひとたちも「天罰」という言葉を駆使できるほどの表現力を持ち合わせてはいないだろう。が、断じて「一部」ではなく多くのサッカー・ファンがこのくらいのことには気づいており、それでも「悲劇」という表現を受け入れているのは(メディアの表現力のなさを除けば)選手に対する惻隠の情であると私は思っている。
さらに独裁者フセインの息子の恐喝によって火事場の馬鹿力を出したイラクの選手に、日本の選手が戸惑ったことも多くのサポーターが知っている。巨人ファンとサッカーのサポーターは違う。その現場を著者は知らない。
そこでドーハの試合を「天罰」と書くことのできる「高見」に立った評論は、いかにその論が正しくとも、読者(である私)には、居心地の悪さ、喉越しの悪さ、といったものを覚えさせるのである。
「高見」に立つことは評論者には必要なことだろう。が、アンタはそんなにエライのか、という思いは対談形式の話し言葉になると度合いを増し、対談相手までが選手やスポーツ関係者を小馬鹿にする言辞で著者に対するお追従を繰り返すと、うんざりした気分に陥る。
いつの時代にも高踏遊民の前衛的論説は必要なのだろう。が、本書を読んで、時代を動かすのは、前衛が文壇バーでインターナショナルを歌ってるあいだにサッカー場(運動の現場)へ足を運んで発煙筒を投げている「市民」である、という思いを強くした。 |