競馬とは子供のころから縁があった。それは、家のすぐ近所に場外馬券売り場があったからだ。
わたしが生まれ育ったのは京都の祇園街。といっても、「一力」をはじめとする花街と、顔見世で有名な南座のあいだに挟まれた商店街で、艶っぽい香りとは無縁の道筋。
いまはバブル崩壊とドーナツ化現象で、駐車場という名の空き地が増えたが、むかしは、八百屋、肉屋、漬物屋、果物屋、畳屋、下駄屋、足袋屋、文具屋、時計屋、古着屋などがずらりと軒を連ねる商店街で、我が家はその一角にある電器屋だった。
いまもある場外馬券売り場は、「一力」のある花見小路、舞妓や芸妓が「都をどり」を披露する祇園甲部歌舞練場のすぐ隣にあった。しかし、紅殻格子(べんがらごうし)と犬矢来(いぬやらい)の家が並ぶ祇園街の情緒に配慮してか、場外馬券売り場を訪れる“ギャンブラー”たちは、花見小路を歩くことが許されず、ガードマンに誘導されて我が家の前の商店街を歩いて目的地に達することになっていた(京都を離れて二十年以上になるが、たしか、いまもそうだと聞いている)。
そこで、小学生にもならない小さなころから、毎週週末になると、わたしは、「男たちの喜怒哀楽」と間近に接し続けることになった。とはいえ、いつの週末も、圧倒的に多かったのは「哀」のほうで、子供心に男の悲哀とはこういうものなのか、ということを感じ続けていたわけだ。
HORSE |
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名馬メイズイ |
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名馬シンザン |
そんななかで、いまもはっきりと憶えているのは昭和38年、わたしが小学五年生の秋の出来事である。
東京オリンピックの前年、名馬シンザンが日本競馬史上初の三冠馬に輝く前の年。その年のヒーローはメイズイという名の美しい馬だった。
メイズイは、子供の目にも美しいとわかるほどにスマートな馬体をしていた。華奢とも映るほどに絞り込まれた胴回りで、常に先行を切り、そのまま逃げる。力強い迫力はなかったが、風を切って先頭を走る、いや、風に乗るように走る姿は、じつに美しいものだった。
そして、春の皐月賞も、ダービーも、圧倒的な速さと美しさで他の駄馬たちを引き離し、一着でゴールインした。
史上初の三冠馬の誕生か、と騒がれた名馬は、われわれ子供たちのあいだでも大人気となり、草野球で盗塁を決めたりすると、「メイズイみたいに速かったやろ」といって自慢したものだった。
その美しい馬が、三冠を賭けて出場した菊花賞の日、いつもは競馬にまったく興味を示さなかったわたしの父も、店に置かれたテレビのスイッチをひねり、馬券を握り締めた何人かの通行人とともに、画面に注目した。もちろんわたしも、店の椅子に座り、画面にいちばん近い特等席でレースに注目した。
ゲートが開いたとたん、メイズイは、いつもと同じように颯爽と風に乗って駆け出した。周囲の駄馬たちは、まるで敵ではなかった。三馬身、五馬身、七馬身・・・いや、バックストレッチでは十馬身以上の差をつけただろうか。圧倒的なスピードだった。誰もがメイズイの勝利を確信して疑わなかった。
ところが――
最終コーナーを回ろうとしたとき、メイズイは、とつぜん大きくよろけた。誰もがオオーッと思わず声を張りあげた。そのときの様子は、いまもはっきりと憶えている。テレビ画面に正面から映し出され、わたしたちに向かって走っていたメイズイのクビが横にねじれ、脚がもつれた。倒れなかったのが奇蹟と思えるほどで、次の瞬間、美しい馬体は一気に駄馬たちの群に呑み込まれて見えなくなった。
テレビのアナウンサーの大声だけが虚しく響いた。店の入り口に立ってテレビ画面を覗き込んでいたはずの男たちは、いつの間にか消え失せていた。わたしは椅子から立ちあがって、店の外へ出てみた。そして、愕然とした。目の前には、異様な光景があった。
大勢の男たちが、肩を落とし、無言でぞろぞろと歩いていた。なかにはすすり泣いている男も何人かいた。大の大人たちが悄然と歩く姿は、子供心に強烈なインパクトがあった。その意味を判然と理解することはできなかったが、美しい馬が痛々しく敗れたことと重なり合って、深く記憶に刻み込まれた。
わたしは競馬をあまり見ない。馬券も買わない。もう25年くらい前のことになるだろうか、有馬記念を楽しんでみようという気になり、出場最高齢の八歳馬と、唯一の牝馬という組み合わせの連勝複式を3千円買ったことがある。すると、カネミノブ、インターグロリアが一着二着でゴールに駆け込み、8千円前後の高配当を手にした。
大学を中退して物書き稼業になったものの、仕事がなかなかうまくいかなかった当時、そのおかげで、支払いを滞らせていた家賃、電気代、電話代等を、すべて払うことができたのは本当にうれしかった。が、その後はまったくといっていいほど馬券を買っていない。
競馬が嫌いというわけではなく、生来の小心で、ギャンブルが苦手ということもあるのだろう。が、どうも、メイズイの記憶が心の奥で騒ぐ。
あまりにも美しく、あまりにも哀しく散った名馬の記憶が、わたしの背後で手綱を引く。美しい馬、颯爽と疾駆する馬が出現するたびに、その儚さ(はかなさ)のほうに思いを寄せてしまう。すすり泣きながら、肩を落とし、足を引きずるように歩いていた男たちの姿が、亡霊のようによみがえる。美しい馬に夢を抱いた男たちの無念を思い起こしてしまう。
歳をとると、いろいろわかってくることがあるもので、いまでは、それが人生というものなんだと理解できるようになった。
いろんな馬は、いろんな人間の一生を凝縮して見せてくれる。最も美しい馬は、最も美しい人生というものの、美しさゆえの儚さ、切なさ、そして素晴らしさというものを眼前に示してくれた。
そんなふうに考えてしまうことが、おそらく、わたしが馬券を買わない(買えない)最大の理由なのだろう。
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有馬記念で大儲けして以降、わたしが買った馬券は、インターグシケン、マチカネタンホイザ、ローゼンカバリーくらいで、どれも「お付き合い」みたいなものです。ワルキューレ、ジークフリート、ドンジョヴァンニ・・・といった名前の馬が現れれば、喜んで馬券を買うと思いますが・・・。
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前回の『プロ野球記録ウルトラクイズ』のこたえ
<Q1のこたえ>
その年(昭和57年)に「DHの打者にはアテウマを使えない」というルールが定められたのに、阪急の上田監督はそのルール改正を忘れ(知らず?)5番DHとしてピッチャーの山沖を起用した。そのため、初回1死満塁の絶好機にもかかわらず、スタメンの山沖を1度は打席に絶たせて結果を出させないといけなくなり、三振に終わってしまった。
<Q2のこたえ>
山下が三振した投球を捕手が落球。ところが内野手がこの落球(振り逃げ)に気づかず、捕手から一塁手に投げられた球を、一塁手は二塁手へ、二塁手は遊撃手へ、とアウトのつもりで「ボールまわし」をはじめた。その途中、山下が一塁へ走り出していることに気づいた遊撃手があわててボールを一塁手へ戻し、山下はアウト。その途中、ボールに触れた内野手のすべてに「補殺」が記録された。
<Q3のこたえ>
打者・葛城の打った併殺打は、ボールが4-6-3とまわったときに、一塁手が落球。もしもエラー(落球)がなければ併殺が成立していたと思われる場合には、打者に「併殺打」が記録される。そのため、次打者アスプロモンテが、今度はホンモノの二ゴロ併殺打を打ち、1イニング2併殺打の珍記録が生まれた。
<Q4のこたえ>
打者・国松は、三塁走者がホームインする前に一塁走者を追い越し、その瞬間にアウト。これで2死。その直後、三塁走者がホームインして、「打者アウトのサヨナラ安打」の珍記録が成立した。
<Q5のこたえ>
5打者連続安打の間に2走者がアウトになり、2死満塁で打席に立った打者の打った打球が走者に当たると、走者は守備妨害でアウトだが、打者にはヒットが記録される。これで「6打者連続安打無得点」というスーパーウルトラ珍記録が生まれるはずだが、まだ日本のプロ野球では(おそらくアメリカでも)生まれてない。史上初の記録が生まれることを、楽天イーグルスに期待しよう!(笑) |