一人の高校生が死を選んだ。遺書から、自殺の一因が、暴力と言うほかない体罰だったと断定できる。暴力をふるったのはバスケットボール部顧問の体育教師。暴力は日常化しており、キャプテンだった高校生は「30発も40発も」「しばき回され」たという。
それだけでも十分に異常というほかない出来事だが、さらに異常なのはこの教師の異常な行為を擁護し、体罰を肯定する声が今もなお少なからず存在することだ。
そもそもスポーツを指導するのに、「罰」など必要ないはずだ。ましてや「体罰」は、21世紀の現代社会に絶対存在してはならないものである。
試合での敗北はもちろん罰せられるべきことではない。それは敗因を考え、分析し、次の試合に備えて新たな戦術や練習方法を編み出す成長の機会で、そのように導くのが指導者の務めである。
気を抜いたプレーで全力を出さずに敗れたり、練習でも集中力を欠く生徒がいれば、なぜそんなプレーしかできなかったのか、それを徹底して話し合い、原因を見つけ、その原因を治すのが指導であり、教育のはずだ。
そのとき一発ビンタを食わせれば、生徒はシャキッと気合が入る(ように見える)かもしれない。が、そんな一時のカンフル剤が人生という長い期間有効に作用するはずがなく、カンフル剤は繰り返し必要となり、量も増え、そうして育った生徒が指導者に成長すれば、それ以外の有効な指導法を知らない指導者はカンフル剤の使用をさらにエスカレートさせる。
その行き着く先が、過去のいくつかの事例からも「死」であることは証明されていると言っていいだろう。
今回の桜宮高校バスケットボール部の事件以外にも、過去に多くの体罰による「心の傷」や「指導死」が存在する。にもかかわらず、適度の体罰は有効、愛情ある体罰は許される、などという声がやまないのは、なんと貧困な想像力か!
私は過去に(20年以上前の出来事だが)何度も体罰の現場を見た。素手でのゴロの捕球にミスした野球部の生徒に向かって、至近距離から「体で覚えろ!」と怒鳴りながら全力で硬球を何発も投げつけ、生徒の身体をあざだらけにする監督がいた。
「俺の手も痛いんだ!」と叫びながら殴り続ける監督に、「ありがとうございます!」と、鼻や唇に血をにじませながら涙声で答える選手の姿も目撃した。
今は、それらが「指導死の温床」と気づけなかった想像力のなさと、告発する勇気を持てなかったかつての自分の情けなさを恥じ入るほかない。
が、一緒に見ていた記者の所属するメディアが全国大会の主催社で、暴力を非難するどころか体罰をふるう彼らを「名監督」たたえていたことも、明らかに異常と言うほかない出来事だった。
昔は体罰など当たり前、としたり顔で経験談を口にする元スポーツマンがいる。体罰をすべてなくせば、スポーツは間違いなく弱くなる、とテレビで断言した元スポーツマンもいる。異常な世界に一度でも身を浸せば、正常な世界の存在が見えなくなるのだろうが、これほど無知と想像力の欠如をさらけ出した恥ずべき言辞はない。
そもそもスポーツとは「暴力的な勝負をルール化し、ゲーム化した遊び」である。したがって、暴力によって権力を奪い取る権力者が支配する社会ではなく、話し合いによって為政者を選ぶ民主主義の発達した古代ギリシャや近代イギリスで真っ先に誕生し、発展した。
スポーツとは、根源的に一切の暴力を否定し、「殺すな!」という「平和」のメッセージを含む人類が生んだ偉大な文化と言えるのだ。そのスポーツを教育に取り入れたはずの体育で、体罰という名の暴力が横行するのは、「スポーツとは何か」という本質を理解していない、教育者にとってあるまじき行為といえる。
体罰というカンフル剤をほんの少しでも認めよと言うのは、思考を停止せよ、言葉を使うな、というのと同義語である。それは教育でも体育なければ、スポーツでもない。
そのことに気付くなら、今こそ真の体育教育を新たに構築し、真のスポーツ理解を推し進める大きなチャンスのとき、と言えるはずだ。 |