今年もまた「真夏の風物詩」とも言われる夏の甲子園大会に向けた高校野球の地方大会が幕を開けた。
私は、スポーツライターという職業に就いて以来、この「夏の甲子園大会というビッグ・イベント」を、約半世紀にわたって批判し続けてきた。
理由は数え切れないほどある。が、重要な理由を一つ挙げるなら、たかが高校生の「部活動」に、これほど多くのメディアや大人たちが大騒ぎするのは、誰がどう考えても間違っているだろう、ということだ。
この「ビッグ・イベント」は、まるでプロ野球選手予備軍の集まりで、私学の野球有名高校の宣伝の場であり、大人の監督が高校球児と呼ばれる高校生を、まるで将棋のコマのように扱って勝ち進むことを争う大会と言うべきだ。
全国4千校近い高校がトーナメントで試合を行い、約半数の2千校近くが1試合だけで大会から退く。チームによる球技大会は、本来リーグ戦で行うべきもので、力量の拮抗した相手と複数回試合を行い、勝敗を競うなかで成長し合うのが一般的なやり方だ。
なのに高校野球は、なぜか春・秋の大会もトーナメント制に固執する。それが不可解で、非教育的と言うほかない。
トーナメントとは元々中世ヨーロッパで甲冑(かっちゅう)を纏(まと)った騎士たちが長い槍を持って馬を走らせて戦う「馬上槍合戦」を指す言葉だ。槍で馬から突き落とされた騎士は二度と立ち上がれない。それがトーナメントだ。
しかし、スポーツ(野球)は戦いではない。ましてや高校生の部活動なら多くの学校が多くの試合(公式戦)を経験できるやり方を、指導者(大人)たちが考えてやらねばならないはずだ。が、高校野球は百年一日のごとくトーナメントに固執し、負けたら終わりの瀬戸際に立たされた高校生たちの「戦い」を、大人たちが見て楽しんでいるようにも思える。
トーナメントと並んで不思議なのは「補欠選手」の存在だ。野球部の育成に熱心な学校には、百人前後もの選手が存在し、高校生活3年間で1試合も公式試合に出ることなく終わる選手も珍しくないという。
何年か前、サッカー評論家のセルジオ越後さんに、「どうしてBチーム、Cチーム……を作って試合に出してあげないの? 練習だけでは楽しくないでしょ」と言われて、目から鱗が落ちるのを感じた。
聞くところによると高校サッカーでは、日本サッカー連盟の方針で改革が進み、補欠選手をなくしてBチーム、Cチーム……も公式戦に出られることになり、地方大会ではリーグ戦を採用するようになった県も増えたらしい。
高校野球も数は少ないが、春や秋に自主的にリーグ戦を行う県も出てきた。が、全国的にそういう方針は徹底されていない。
今年の夏の甲子園大会は、開会式の入場行進でプラカードを持つのが女子高生だけでなく、男子高生も登場することになった。また、坊主頭を強制する学校も減ったとか。
しかし、入場行進は旧帝国陸軍の閲兵式から生まれたもので、坊主頭も軍隊(兵隊)の象徴とも言える。そんなことを自覚しての「改革」とは思えないが、そんなにまでして(大人がやりたい?)「ビッグ・イベント真夏の甲子園大会!」なら、とにかく猛暑熱波による高校生の犠牲者が出ないことを祈りたい。
|