昨年11月、馳浩文科相が「体育の日」の名称を「スポーツの日」に変えることを示唆。今年1月、スポーツ議員連盟がプロジェクトチームを立ちあげ、その変更を検討することになった。
何年も前から同じ意見を主張し続けてきた私には、非常に嬉しいことである。
もともとスポーツという言葉は、文明開化の明治10年前後に日本に伝播し、最初は「釣り」と翻訳された。続いて「乗馬」。釣り糸を垂れたり馬に乗っている外国人に、「何をしてるの?」と訊くと、「スポーツ」という答えが返ってきたのだろう。
そこで釣りも乗馬もスポーツなら、「スポーツとは何?」という疑問が新たに生じ、「遊技」という訳語が生まれた。
が、ランニングや鉄棒や跳び箱などのスポーツは兵士の訓練(軍事教練)にも利用され、それを「遊技」とは呼べず、「運動」「体育」「競技」などの訳語が作られた。そして日本ではスポーツが主に学校で行われたことから、「体育」がスポーツの訳語として広まったのだ。
とはいえ、スポーツとはラテン語のデポラターレ(日常的な労働を離れた非日常的な遊びの時空間)という言葉から生まれた。従って音楽や絵画といった芸術文化も広義のスポーツの一種であり、「冗談・気晴らし・娯楽」といった意味もある。
一方「体育」は英語に訳すと「フィジカル・エデュケーション(身体教育)」で、スポーツとは意味が異なる。
古代ギリシャや近代イギリスで生まれ発展したスポーツは、民主主義社会の誕生と密接な関係があり、フットボールの歴史はヨーロッパの歴史、野球の歴史はアメリカの文化史にもつながる。つまりスポーツには「知育」の面もあり、「徳育(道徳教育=スポーツマンシップ)」も含むのだ。そんな大きな価値を持つスポーツを、「体育」とのみ訳すのは、明らかに誤訳と言える。
が、昭和36年にスポーツ振興法ができたとき、体育がスポーツの訳語とされ、昭和39年東京オリンピックの開会式の日(10月10日)を記念して「スポーツに親しみ健康な心身を培う日」と定められた国民の祝日も、英語では「Health
Sports Day(健康とスポーツの日)」と称しながら、「体育の日」と呼ばれるようになった。
そのため今でも「スポーツ=体育」と誤解している人も多いようで、本来は好きで自発的に行われるべきスポーツが、我が国では命令されて強制的に行わされ、時には体罰まで伴う身体訓練と曲解される事態まで生じてしまった。
しかし5年前(平成23年)、スポーツ振興法が全面的に改正されてスポーツ基本法となり、学校教育の体育とは別のスポーツの価値が見直され、スポーツによる豊かな社会づくり(スポーツ立国)が目標と定められた。
そんななかで「国民体育大会=National Sports Festival」「日本体育協会=Japan Sports Association」という「誤訳」は残ったが、「体育の日」が「スポーツの日」に改まれば、多くの人がスポーツと体育の違いにも気づき、それらの誤訳も早晩改められることだろう。 |