――岡田監督は中学からサッカーを始められましたが、最初にサッカーで充実感とか感動を得られたのは、いつだったですか?
岡田 高校3年のとき、クウェートで開かれたアジア・ユースに代表として選ばれたときかな。それが初めての海外旅行で、いろんな外国の選手と交流できたのが新鮮でした。英語もろくに話せなかったけど、イラン人の友達ができて、帰国してからも文通を続けました。イラン・イラク戦争で音信不通になったのは残念だったし、僕は控えで試合には出られなかったけど、サッカーをやってなかったら海外に行くこともなかったし、よかったと思いましたね。
――高校生でユース代表は見事ですね。
岡田 3人選ばれた高校生のなかの一人で、僕は大阪代表のキャプテンとして国体には出場したけど、全国大会には出てないし、誰か注目してくれた人がいて選考合宿に呼ばれたんでしょう。でも、社会人や大学の選手が多くて、眼鏡をかけてプレイする僕なんか全然ついていけなかったのに、4次まであった合宿で、いつも最終日の選考の頃になると調子が良くなって練習試合で得点して、選考に残ることができた。
――現在のマリノスの粘りの原点ですね。
岡田 試合は選手がプレイしてるんだよ(苦笑)。でも、最終合宿が大学受験の真っ最中で、クウェートに行ってるときに合格発表があって、先輩に見に行ってもらったら、名前がないといわれた。
――それで1年間の浪人生活・・・。
岡田 そう。サッカーで大学に行こうともサッカーを続けようとも思わなかったから、早稲田に合格した後も、サッカー部ではなく、サッカー同好会に入りました。浪人中はサッカーをしなかったし、身体も鍛えてなかったから。
――サッカーにあまり熱を入れなかった?
岡田 中学を卒業した頃は、高校なんか行かずにドイツへ行ってプロになると宣言してました(苦笑)。当時はクラマーさん(東京・メキシコ五輪の日本代表コーチ)以来、ドイツのサッカーが中心でしたから。でも、高校へ行ってからでも遅くないと親に説得されて、それでもきかないから、親父に新聞社のエライさんのところに連れて行かれた。そのエライさんは、大胆なことをいう少年の夢を叶えてやろうかとも思ってたらしいけど、会ってみたらメガネかけたひょろひょろの餓鬼が生意気なこといってるだけ(笑)。それで高校へ行けと親父と一緒に説得されて、ドイツの夢もなくなって、大学でも同好会でぷらぷらしてたら、あるとき西が丘球技場で平木さん(のちの名古屋グランパス監督)に出逢って、「何のためにユースに選んだんだ! すぐに協会に来い!」といわれて協会に行ったら、長沼さんとかに囲まれて説得されて、その場で早稲田のサッカー部に電話されて、翌日から練習に行かされた(苦笑)。
――それ以来、サッカー一筋の道を?
岡田 いや、まだまだ(笑)。大学卒業のときは環境問題に興味を持って、マスコミ関係に進もうとしたけど、テレビ局の入社試験に落ちて(苦笑)。学生結婚して女房もいたので、働かなければならないし・・・。
――それで古河へ?
岡田 民法の単位を落として卒業できなくなりかけたのを堀江先生(ベルリン五輪出場選手)に助けてもらったりとか、いろいろあって、サッカーから離れよう離れようとしても、なぜか離れられなかったですね。
――サッカーが嫌いにはならなかった?
岡田 サッカーは好きでした。学生代表でメキシコでのユニバーシアードに出場したり、日本代表に選ばれるようにもなって、古河に入ってからは海外遠征も増えたし、充実してましたよ。でも、会社で仕事もまかされて、それもやり甲斐があったし、サッカーをやることで何かを得ようとか、生活しようとか、そういう考えはなかったですね。
――当時の目標としてW杯は?
岡田 それは眼中になかった。別世界という感覚。目標はオリンピックで、ロサンゼルス(84年大会)には行けると思ってたけど、アジア予選の初戦でタイに負けてしまった。そこからずるずると崩れて・・・。でも、当時は代表チームがヨーロッパ遠征に行っても、地方都市の2部か3部のチームしか試合をしてもらえなかったし、そこと対等な試合をするのに必死というレベルでした。それに、会社の給料にはサッカー部手当や勝利給はありましたけど、製造業の会社というのは残業手当が大きくて、僕らにはそれがないからけっこう生活は苦しくて、女房と6畳一間のアパートから銭湯に通って、代表合宿に呼ばれると小遣いがないからサラ金からカネを借りて、60円の自販機のジュースも我慢するような生活でした。けど、カネのないことや会社の仕事があることをハンディだとは思わなかったし、好きなサッカーをして充実感はありましたね。
――それから古河のコーチに?
岡田 34才で現役を引退して、コーチになると人事部付きになって、基本的に会社の仕事はしなくてもよくなるんです。けど、2年で行き詰まってしまいましてね。
――行き詰まったというのは?
岡田 僕は生意気な選手でね(笑)、選手時代からオレがチームを動かしてるんだという気持ちでミーティングとかもやってたんですよ。監督やコーチは選手の気持ちがわかってなくて、選手のやりたいようにやらせてくれないから、コーチになったら、選手にやりたいようにやらせようとしたんです。でも、それは大きな間違いで、やっぱり指導者と選手では試合や練習に対する考え方が違って当然ということに気づいた。そこで一から勉強し直さなければと思って、ドイツに留学させてくれといったんです。ダメなら会社を辞めてでも行くと・・・。
――当時の日本では、コーチングや指導法のノウハウが確立してなかったですよね。
岡田 そう。代表の合宿でも、夜は監督も一緒に全員で宴会です(笑)。体育会系的仲良しグループで、僕もそういうものを引きずっていた。
――ラグビーの平尾誠二も、代表合宿の夜は一気飲み選手権だったといってた(笑)。
岡田 どれだけ飲んでも翌日きちんと練習できないとダメ、というノリで、僕は酒が飲めなかったからきつかった(苦笑)。けど、具体的な指導法や、監督と選手のあいだに一線を引く方法とかが、ドイツへ1年間留学したことでよくわかりました。
――そして帰国したらJリーグの開幕・・・。
岡田 家族で渡っていたドイツから帰国して1〜2週間後に開幕戦でした。国立競技場にヴェルディ対マリノスの試合を見に行きましたけど・・・。これが日本なのかと仰天しましたね(笑)。たった1年で、日本はこんなに変わったのかと、ほとんど浦島太郎状態(爆)。ガラアキだった客席が超満員で、サポーターが両チームの応援に分かれて、チアホーンが鳴って・・・。応援といえば、会社のチアリーダーしか知らなかったのに(笑)、びっくりしましたよ。
――そして岡田さんも古河電工を退社して、プロとしてジェフのコーチに。
岡田 子供が3人いてマンションも買ったところで、どうしようかと迷いましたけどね。契約条件もたいしたことなかったし(笑)。でも、大きく日本のサッカー界が変わろうとしているときに、おれのような立場の人間が水をさすのもよくないと思ったので、ここは流れに身をまかせるのがいいかな、と思って決めたんです。
――のちに代表監督として取材を受けられたときは、Jリーグの理念に賛同したから、という発言もされましたが・・・。
岡田 それは、あとでつけた理屈ですね(苦笑)。当時は株価が大きく下がっても、まだバブル崩壊の実感はなくて、銀行までが倒産するとは思ってなかった。けど、大企業の社員でも安穏としていられないという声はあったし、「会社員でもプロのコーチでも、どっちをやっても変わらないか」という程度のノリでした(笑)。でも、学生時代から関心のあった環境問題に関わりたいけれども、能力もきっかけもないというときに、Jリーグという地域社会と密接に結びついたスポーツ活動が生まれ、自分もサッカー指導者としてそれに関わることによって、地域社会のためとか、大きくいえば人類のため、地球のための仕事に少しは関係できると思うと、自分に対する慰めというか、納得できる材料にはなりましたね。風が吹けば桶屋が儲かる、という程度の理屈かもしれないけど(苦笑)。
――それにしても、Jリーグの誕生は劇的な出来事だったといえますね。
岡田 それは、本当にそう思いますよ。第二次大戦後の日本の高度経済成長に匹敵するくらいの劇的な変化です。これほど劇的に変化し、成長した例は、世界のサッカー界でも、他に類を見ないでしょう。
――成功した要因は何だったのでしょう?
岡田 やっぱり、理念というものが意味を持ったと思いますよ。それまでの日本には、理念やポリシーを持つものが存在しなかった。プロ・スポーツは金儲けの興行なんだけど、Jリーグは、ただの興行じゃない。おカネをもらってショーを見せるんじゃなく、ホームタウンのスポーツ文化を発展させ、町おこしに貢献し、ライフスタイルを変える拠点にもなり、ひょっとしたら環境問題にも関わる。けっしてそれがメインの目的ではないけど、理念がなければ、メインの活動を支えられないし、メインの目的も達成できない。
――メインの活動と目的とは、日本のサッカーを強くしてW杯で活躍することでしょうが、それ自体には、勝って嬉しい、強くなって嬉しい、という以外、さしたる意味はないですからね。
岡田 スポーツが社会に根付いて、人々の暮らしのうえで意味を持つには、小さな積み重ねが必要なんです。現場レベルの話をすると、Jリーグも最初のうちは延長Vゴール方式で引き分けナシの2シーズン制でした。それは「運」がからんで観客には面白く、興行事業としてはプラスかもしれないけど、本当に強いチームを決めるリーグ戦とはいえなかった。それが徐々に改善され、引き分けも生まれ、来季(2005年)からはホーム&アウェーの1シーズン制になる。興行性が薄められても事業としてマイナスにならない。スポーツが根付きはじめたわけです。
――レアル・マドリッドが来日してジダンの凄いプレイを見ても感動しますが、「おらがチーム」を必死になって応援する感動とは較べものにならない・・・。
岡田 そこがファンとサポーターの違いですよ。サポーターはチームと共に闘うなかで感動を得る。ファンはお金を払って感動を買う。経済的に潤った現代では、感動をおカネで簡単に買えるようになった。けど、おカネでは買えない感動をJリーグは与えたし、与えようとしているし、それを多くの人々が求めてもいるんだと思いますよ。
――それは理屈ではわかっていても、Jリーグ1年目にアントラーズが優勝して、鹿島のおばさんやおじさんが涙を流したとき、誰もが本当に気づきました。
岡田 昔は僕も野球をやっていて、初めて自分のグローヴを手にしたときって、寝るときも抱いて布団に入ったじゃないですか。でも、いまは適当に快適で、適当に感動を得て、エアコンの効いた部屋で適当に生きていける。そういうなかで若者や子供たちの目から輝きがなくなってきた。スポーツは、その輝きを取り戻すことができる。だから、スポーツはやっぱりみんなで一緒に創りあげる文化といえるんですよ。
――Jリーグはプロ野球とは違う・・・。
岡田 プロ野球は、文化としての活動よりも興行性が大きすぎるんでしょうね。
――しかし、Jリーグにももちろん興行性は必要で、その点マリノスは、カルロス・ゴーンが立て直した日産がバックについているから恵まれているといえますよね。
岡田 そんなことないですよ。僕らは横浜F・マリノスとして自立するのが目標ですから。日産もゴーンも関係ない。ゴーンはカネを出すといってくれるけど、将来の自立のことを考えると、無駄なカネは使えない。無理な要求をする気もない。ユニフォームの胸のロゴも、露出度から考えれば12億円くらいの価値があるらしいけど、相場としては2億円くらい。しかし7億円出してもらってる現状では、5億円の赤字補填をしてもらってると考えられるわけです。そういう部分をなくして、自立した経営をできるようにしたいですね。
――そういうJリーグと各チームのやり方は、他の日本のスポーツにとってのモデルケースになると考えていいでしょうか?
岡田 僕は、そうは思いません。Jリーグは、たまたま理念を掲げて地域に密着したスポーツクラブとしての活動を12年間続けてくることができた。でも、だからJを真似ろというと、他のスポーツ界の人も面白くないでしょう。それにJリーグも、まだまだやれることがいっぱいある。たとえばマリノスも、サッカーだけでなく他のスポーツの普及に力を入れるべきだし、(和太鼓の)林英哲さんのコンサートなんかをマリノス主催でやってもいい。要は、便利さと快適さばかりでギスギスした暮らしにくい現代社会に、本当の感動で夢や潤いをもたらすのが目的なわけです。だから、いろんなスポーツ界の人が独自にいろんなアイデアで動けばいいと思う。
――プロ野球界も、いまがチャンスですね(註・この年、プロ野球選手会のストライキが行われた)。
岡田 詳しい事情はわからないけど、Jリーグでもフリューゲルスとマリノスの合併があったわけです。でも、そのときライブドアがフリューゲルスを買いたいといってきていたら、少なくとも話は聞いたでしょうね。それに全日空もサポーターに説明をした。そもそも企業が赤字ならば企業メセナなんて不可能なのは当たり前で、だからこそ、各スポーツクラブは独立を目指さなければならないし、さらに税制の改革なども求めていくべきでしょう。横浜ベイスターズの二軍の横須賀シーレックスなんか、寮やグラウンドを維持するには償却費や固定資産税が大変で、年間40億円かかるという。そういう税制を改めてもらわないと・・・。
――スポーツは地域社会だけでなく、国際交流にも重要な役割を果たしますからね。
岡田 中国でのアジア杯ではいろいろ問題があったけど、僕らが代表だったときも、釜山での韓国戦なんか、ガラスの瓶を投げつけられたりしましたよ。でも、交流が続いて互いに理解が進むと、そういうことはなくなってくるものです。日本のサポーターが相手国の国歌にブーイングしたことも過去にはあったんだから。日本の社会も様々な国も、もっともっとスポーツとともに成長すればいいんですよ。 |