今回から新しく連載コラムを書くことになったタマキです。どうぞ、よろしく。
スポーツ評論家である小生のテーマはもちろんスポーツ。だが、スポーツに関する事柄を書こうとすると、スポーツ以外の話題に広がらざるを得なくなる。
たとえば2020年東京オリンピック・パラリンピックはどんな大会に?……とか、巨大な戦艦大和がスッポリ屋根の下に納まる大きさの新国立競技場は、本当に建設できるのか?……といった話題を取りあげると、政治や経済の動向に触れないわけにはいかない(衆院選大勝で長期政権化しそうな安倍内閣のアベノミクスは、東京五輪でボロ隠し?)。
それにオリンピックの開会式はAKB48やEXILEの歌や踊りでいいの? という疑問を考えるなら、ロンドン五輪の開会式ではポール・マッカートニーやミスター・ビーンに注目が集まったが、ベルリン・フィルハーモニー常任指揮者のサイモン・ラトルが音楽監督を務め、映画『スラムドッグ$ミリオネア』でアカデミー監督賞に輝いた王立シェイクスピア劇場出身の演出家ダニー・ボイルが総演出をした、という話題にも触れないわけにはいかない(東京五輪の演出はAKBの仕掛け人でいい?)。
さらに五輪開催都市に義務付けられている「文化プログラム」はどうするの? という話題に触れるには、やはりロンドン五輪のときに行われた世界37ヶ国語によるシェイクスピアの連続上演(英語はもちろん、ドイツ語、フランス語、日本語、中国語からスワヒリ語や手話まで!)についても書かないと……(東京五輪ではどんな文化イベントが開催されるのでしょう?)。
というわけで、政治経済も芸術芸能も、すべてはスポーツに関連する話題と言える。いや、そもそも芸術や芸能はスポーツの一種と言える文化なのだ。
われわれ日本人は、スポーツを学校の体育の授業で学ぶため、「スポーツ=体育」と誤解している人や、身体を動かすことだけがスポーツだと勘違いしている人が多い。が、スポーツとは元々ラテン語のデポラターレから生まれた言葉で、日常の仕事(労働)を離れた非日常的な時空間を意味する。つまり現代の言葉で言えば「遊び」「余暇」「レジャー」といった言葉に近い。
だからオリンピックにも身体競技だけでなく、かつては芸術競技という正式競技も存在し、1912年ストックホルム大会から48年ロンドン大会までは、絵画、彫刻、文学、音楽作曲……などにも金銀銅のメダルが与えられた。それが今日の文化プログラムに引き継がれているわけだが、紀元前の古代ギリシャのオリンポスの祭典(古代オリンピック)でも、竪琴の演奏や即興詩の朗読のほか、政治演説も正式競技として競われたことがあったという。
ゼウスやアポロンやアフロディテ(ヴィーナス)など、オリンポスの山に棲む神々を讃える歌を詠み、大理石の像を彫ったことから芸術芸能(精神文化)が生まれ、神々のような力強く美しい身体に近づこうとしたことからスポーツ(身体文化)が生まれたわけで、精神と身体の両者が伴ってこそ人間の文化と言えるのだ。そのうえ神々の意思(神託)を予想することから生まれた遊びがギャンブルで、アートとスポーツとギャンブルは兄弟文化と言えるのだ。
さらにスポーツは、民主主義とも深い関わりを持つ文化と言える。
千年間近くもオリンポスの祭典を催し続けた古代ギリシア。19世紀になって近代スポーツを最初に生み出したイギリス。両者に共通するのが民主主義。その政治制度が生まれる以前は、武力(暴力)で戦争に勝利した者が社会の支配者となった。が、民主制になると暴力は否定され、選挙や話し合い(議会)で社会の指導者を選ぶようになった。
そうして非暴力化された社会では、傷つけ殺すための暴力的な戦いの技術もゲームに変化し、レスリング、ボクシング、フットボール、相手の走路を邪魔しない競走……等々、数々のスポーツが誕生した。日本の武士の殺人技だった柔術が、嘉納治五郎によって柔道というスポーツに変えられたのも「万機公論に決すべし」との明治天皇の五箇条の御誓文が出され、議会制度の誕生が約束された明治時代になってのことだった。
だからあらゆるスポーツには「殺すな!」「傷つけるな!」という非暴力のメッセージが含まれており、スポーツにおける暴力(体罰)は断じて許されないのだ。が、我々日本人には、「愛情があれば……」「一発ぐらいなら……」などと体罰を肯定する人が少なくない。
それは「スポーツとは何か?」ということを学ぶ機会がまったく存在しないからだ。学校の体育では身体を動かして様々なスポーツをやらされるが、「スポーツとは何か?」を教わらない。「スポーツは民主主義の非暴力社会の産物」という歴史学者ノルベルト・エリアスの学説を体育の授業で教わることはない。
それどころか、たとえばバレーボールというスポーツのルールは教わっても、バレーボールの「バレー」の意味は教わらない。ドッジ・ボールという言葉は知っていてもドッジ・ボールとはどういう意味か、それを知っている人は少ない。
バレーボールの「バレー」は、テニスの「ボレー」やサッカーの「ボレー・シュート」と同じ言葉で、ボールが地面に落ちる前に扱う「ボレーvolley」が日本語的に「バレー」と訛ったもの……と正しく答えられる日本人はほとんど存在しない。
ドッジ・ボールの「ドッジ」は「避ける」という意味で、ドッジ・ボールはボールをぶつけ合う球技ではなく、元来は避ける球技である、ということを知っている人も少ない。
学校の体育の授業で、教師から「理屈を言うな。言われたとおり身体を動かせ」という教育を受け続け、「スポーツとは何か?」と考えず、スポーツを知らず、学ばず、スポーツと体育の違いも理解せず、巨人が負けたァ! 金メダルを取ったァ! と騒ぐだけでは、世の中にいくらスポーツ情報が溢れても豊かなスポーツ文化は生まれない。スポーツで幸福な社会が築かれることもあるまい。
しかも日本のマスメディアはスポーツ・ジャーナリズム(批判精神)を放棄し、自社主催のスポーツ・イベントの宣伝に力を入れるだけ。その結果、箱根駅伝は男子マラソン選手を潰し、高校野球は野球選手の身体を壊し続ける……。
そんな状況のなか、どんなスポーツのどんな批判を展開してもOK!と、編集者から御墨付きをもらった新連載を始めるのは、大いに意味のあることと言えるに違いない。
というわけで来週から朝日や読売では絶対に読めないスポーツ批評を始めます。乞御期待! |