今年はバンクーバー冬季五輪のあと、6月にサッカーのワールド・カップ、8月にはユース・オリンピック第1回大会(18歳以下の選手による五輪大会がシンガポールで開かれる)など、国際的なビッグ・スポーツ・イベントが目白押し。もちろん国内でも、駅伝、マラソン、大相撲、ラグビー、プロ野球、Jリーグ、ゴルフ…と、話題は尽きない。
考えてみれば、スポーツはベートーヴェンやシェークスピア、ビートルズやマイケル・ジャクソン以上に世界中の多くの人々の注目を集める全地球的規模の人間文化といえる。
では、何故スポーツは、これほど大きな人気を獲得できたのか?
その理由は色々考えられるが、何といっても大きいのは、言語、文字、宗教など、人種や民族や国家や自然環境の違いによる文化的差異とは無縁で、世界中の人々に共通する「身体」を用いる文化だからだろう。
「身体」さえあれば…つまり、この地球上に生を受けた人間なら、誰もがスポーツに参加できる。スポーツは誰も差別しない。それこそが、スポーツが地球上で最も多くの人々に広く受け入れられている理由……と考えているところへ、最近少々視点の異なる面白い意見と出逢った。
《今日、世界的にスポーツイベントがさかんになった要因の一つは、短時間で起承転結を楽しめるからであり、人々の時間認識の縮小に対応しているからである。寸詰まりの時間軸の中で刹那的な感動を求めるにはスポーツがちょうど手ごろだからである》(青柳正規・著『人類文明の黎明と暮れ方』講談社・刊より)
江戸時代ならば実生活のなかで、幕末頃でも権現様(徳川家康)のことや各家の先祖に思いを馳せ、古くからの様々な儀式や季節の営みが残されていただろう。しかし私たち現代人は、祖父母の名前は知っていても曾祖父曾祖母の名前は知らないのが普通の世の中に生きている。
生活の中の伝統儀式は忘れられ、企業はわずか四半期(三か月)ごとの決算で責任を問われる。名門企業の倒産が騒がれたりもするが、その企業もせいぜい創立以来半世紀か百年足らず。人間の一生よりも短期間の出来事がほとんどなのだ。
そんなふうに《時間認識》が縮まり《寸詰まりの時間》が支配する現代社会では、わずか数時間で決着が付くスポーツが好まれる、というわけである。その短時間のうちに、喜びと悲しみが交錯し、物語が完結し、人々は大きな興奮と感動を味わう。そしてその感動は瞬く間に過去のものとなり、新たな感動が求められる。
そういえば最近は、2年前の北京オリンピック、4年前のトリノ冬季五輪はもちろんのこと、昨年の日本野球のWBC2連覇も、はるか遠い昔の出来事のように思える。
もっとも、世界的イベントやトップ・プロの世界はそうでも、自分で行うスポーツは、少々違う。
毎日のジョギング…、週に一度は近所のテニスコートへ…、街のチームに加わり野球やフットサルをプレイする……などの行為は、けっして《寸詰まりの時間》を慌ただしく過ごすこととはいえず、むしろ、豊かな時間を味わうことになる。
グローバルに見て(考えて)ローカルに動く(行動する)――政治やビジネスの世界でよくいわれる現代人の指針を、スポーツは、自然に我々人間に教えてくれているようだ。
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