間もなく、シドニー・オリンピックの幕が開く。
ところで、「オリンピックって、何?」と訊かれたら、あなたは、どう答えますか?
即座に、オリンピックとはXXXXXXXXと、答えられる人は少ないのではないでしょうか?
いや、ひょっとして、スラスラと答えられる人など、皆無かもしれません。
「4年に1度の人類の祭典」といいますが、本当にそうなのでしょうか? スポーツによる人類の平和……とも言われますが、戦争はなくなりません。オリンピック休戦すら、実現していません。
世界最高のスポーツ大会は、サッカーではW杯です。陸上や水泳でも、世界選手権のほうがレベルが高い(記録が上)と言われています。ならば、オリンピックって何なのでしょう?
その答えは、簡単ではありません。
1898年、フランスのクーベルタン男爵は世界の平和と青少年の健全な教育とを目標に掲げ、古代ギリシアのオリンポスの祭典をモデルにしたスポーツ競技会――近代オリンピックを創始しました。
が、クーベルタン男爵の理想は第1回のアテネ大会からつまづきました。
最初パリで開催するはずだった大会は、国家の宣伝になると考えたギリシアの富豪の財力によってアテネで開催されることになりました。
第2回のパリ大会では、万国博覧会の一部として「見世物」のようなもになり、半年以上にもわたって、だらだらと開催され続けました。
その後も、戦争で中止されたり、全体主義国家の宣伝に利用されたり、テロに襲撃されたり、政治的に対立する国がボイコットを繰り返したり、ドーピングで失格する選手が続出したり、金の力で開催都市が決められたり……。
にもかかわらず、今日までオリンピックが開催され続け、世界中の多くの人々に支持されてきたという事実には、ある意味で、驚嘆せざるを得ません。
それは、ひとつには、スポーツが「身体」を用いる文化だからに違いありません。
言葉、宗教、生活習慣が違っても、身体だけは、万国共通、人類共通です。
その身体を用いたスポーツは、ベートーヴェンやビートルズにも、ピカソやディズニーにもできなかった、人類が共有できる文化として発展したのです。
そして、あらゆるスポーツが一堂に会する地上最大のスポーツの祭典オリンピックは、地球上のすべての人々が、無意識のうちに「人類の祭典」と認めるなかで、歴史の荒波にもまれながらも、生き長らえ続けてきたのです。
オリンピックが「身体競技の祭典」であるかぎり、将来も長く「人類の祭典」として開催され続けるでしょう。が、その中味が、どのように変化するかは、誰にも予想できません。
いつの日か、ドーピングがすべて解禁されるのかもしれません? そして、遺伝子レベルのドーピングをした選手たちだけの大会になってしまうのか……?
いや、遺伝子治療をした人は出場できないことになって、厳格な規則と検査により、「自然体」の人々だけが出場し続ける大会になっているのでしょうか……?
そのときパラリンピックはどうなっているのでしょう? オリンピックと一緒に開催されるようになっているのでしょうか……?
出場国は、どうなるのでしょう?
チベットやクルドやコソボ、それに琉球やハワイが出場するようになるのでしょうか?
人類の未来は、誰にもわかりません。
わかっているのは、オリンピックに世界中の誰もが熱狂するということ。そして、未来の人類のあり方について、オリンピックが大きな問題提起をしてくれている、ということだけです。
わたしたち現代人は、オリンピックを楽しみながら、未来の人類のあり方、人間社会のあり方を考えることができるのです。
多分、それが、オリンピックの存在意義といえるのかもしれません。 |