「1964年午後2時。いよいよ選手団の入場であります。先頭はギリシャ。旗手はジョージ・マルセロス君。紺地に白十字のギリシャ国旗が、今、国立競技場の真っ赤なアンツーカーに映えます……」
今もそんなテレビのアナウンサーの言葉が浮かぶ。そのとき私は12歳。小学6年生。まだ心の襞の柔らかい時期にその放送に接したショックは、半世紀以上を経た今も薄らいでいない。
我が家は京都の下町の電器屋で、店頭にはカラーテレビがあった。当時市内にまだ3台しかなかったカラーテレビで「世紀の祭典」を見ようと、町内の人々が50人近く押し寄せ、小さな店内は鮨詰め状態。
その電器屋の長男だった私は、最前列に用意された子供用の特等席で、今ではけっして大きくない16型のカラーテレビの画面を見つめた。
「小さな国に大きな拍手。初参加アフリカのカメルーンは、たった2人の行進であります。健気であります。まったく健気であります!」
そのとき私は椅子に座ったまま振り返り、子供たちの後ろに立っていた大人たちのなかにいた父親に向かって「ケナゲってどういう意味?」と訊いた。
そんなことを今も憶えているのは、そのときの大人たちの顔が今も忘れられないからだ。
大人たちはみんな、涙を流していた。顔は、全員笑っていた。が、誰もが涙をボロボロ流していた。子供だった私はその意味がわからず、黙って顔をカラーテレビの画面に戻したのだった。
もちろん今では、彼らの涙の意味がわかる。 私の父は3度の応召で帝国陸軍軍曹として中国戦線で戦い、顔の目の下と上腕と足に銃創を負った。それからわずか19年。世界中の若者たちが日本に集まり胸を張って行進したのだ。内地に残った人々も言葉では表せない辛酸を味わい、苦労を重ねたあとカラーテレビで見る平和の祭典に涙を流したのは当然だろう。
その後2週間、毎日テレビで見た競技大会も素晴らしかった。だから私は半世紀後の2度目の東京五輪招致に大賛成。ブエノスアイレスでのIOC総会で開催が決定した時、某テレビ番組に生出演していた私は、思い切り快哉を叫んだのだった。
しかし、その後は最悪だった。 エンブレムの盗用問題。新国立競技場の建設は費用の高騰から白紙撤回。招致を巡る贈賄疑惑のあとは、マラソンと競歩の札幌への会場変更。そしてオリン
ピック精神に反する不適切な発言で組織委員長が辞任交代。コロナ禍で次々と変更された聖火リレーはイマイチ盛りあがらず、メディアの世論調査では開催中止の声が今も過半数を超える……。
振り返ってみれば、すべては招致の時点で当時の安倍総理が3・11による福島第一原発の状態を「アンダー・コントロール」と首を傾げたくなる発言をしてしまったことから始まったと言えるかもしれない。
そして今、世界で猛威を揮い続けるコロナ禍のなか、IOCと日本政府は東京五輪開催に向けて突き進んでいる。
大成功と評価の高い1964年の東京五輪でも、翌年は深刻な「五輪不況」に見舞われ、戦後初の赤字国債を2,590億円発行。それが今では積もり積もって1千兆円を超える国の借金という「負のレガシー」になった。
コロナ禍のなかでの2度目の東京五輪は(もしも、どうしても開催するというなら)「負のレガシー」だけは残さないよう願いたい。
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