昨年(2009年)5月17日。宇佐美徹也氏が亡くなられた。享年(満年齢で)七六歳。私は、プロ野球の見方の多くを、宇佐美さんから教わった。
最初に出逢ったのは1970年代の半ば。ジャイアンツが江川事件で混乱し、長嶋監督が勝ち星を手にできず、四苦八苦していた頃のことだったと記憶している。
当時私は小学館の『GORO』編集部の取材記者として仕事を始めた頃だった。当時の『GORO』の野球(スポーツ)記事は、沢木耕太郎、山際淳司、海老沢泰久といった(当時も)新進作家が次々と担当し、人気を集めていた。
『NUMBER』はまだ創刊されていなかったが、スポーツ記事が人気を集め始め、『GORO』編集部は新しいスポーツ記事の「切り口」を求めていた。
それは、私の望むところでもあった。というのは、沢木、山際、海老沢らの「人間ドラマ」路線が私にはいまひとつ納得出ず、人間(スポーツ選手)のおもしろさではなく、スポーツ(野球)そのもののおもしろさを描き出す方法はないものかと悩んでいたからだった。
そこで、1977年に『プロ野球記録大鑑』(講談社)を上梓され、報知新聞記録部長をされていた宇佐美さんに連絡を取り、協力を仰いだのだった。このアイデアに対して当時の『GORO』編集長は、「週刊ベースボールじゃないんだから気をつけてよ。読者の読みたいのは人間ドラマなんだから」と、私には納得できない反応を示した。
が、編集部内でなぜか力を持っていた若い編集者のSが、「おもしろいと思うよ」と後押ししてくれたので、宇佐美さんとの二人三脚ともいうべき企画をスタートすることができた。
以来、月二回刊の『GORO』の締切に合わせて宇佐美徹也さんに2週間に1度お会いできて野球について語り合う時間を持てたのは、私にはかけがえのない勉強時間となった。
新たに幕を開けた『GORO』の野球記事の企画は、「長嶋茂雄の監督能力は?」「王貞治がホームラン王を取れない真の衰えの原因」「江川は救世主になるか?巨人先発投手陣崩壊の原因」といったタイトルで、編集長が怖れた「人間ドラマ離れ」を見出しで誤魔化し、野球のおもしろさを記事にすることだけを目指した。そして2週間に1度宇佐美さんにお会いできることが、私にとっての最高の楽しみとなったのだった。
「もしもし、宇佐美さんですか? また次号でちょっと助けていただきたいのですが……」
「はいはい。いいですよ。明日、いつもの喫茶店に来てください。ところで、次号はどんな企画?」
「はい、長嶋監督についてなんですが……」
「どうするの? ほめるの? けなすの?」
「最近あらゆるメディアがけなしてますで、今回は思いっきり、ほめたいと思うのですが、素晴らしい采配といえる試合展開は、記録から見つからないでしょうかねえ……」
「う〜ん……。それは、どうかな。でも、探しておきましょう……」
いつも、こんな感じでお願いし、お会いして、データをいただいたものだった。
初めのうちは、もちろん戸惑った。「ほめるの? けなすの?」と最初に訊かれたときは、答えに詰まった。もちろん企画のうえでの方針(ほめるか、けなすか)は(「雑誌の売れ筋」が念頭にあるマスコミの常として)固まってはいた。が、記録を扱っている人物に、それを言ってもいいものかどうか、大いに逡巡した。それを言うのは甚だ失礼なことではないか……、そんな戸惑いがあった。
しかし、それは杞憂だった。それこそ、宇佐美さんのやり方だった。そして、それは見事なやり方だった。あるいは、当然の方法論だった。
第六感でもいいから、しっかりとした「仮説」を立てなければ、「記録」も見つからない。「記録」とは、目の前に落ちているものではなくて、隠されているなかから見つけなければならない。それには面白い記録を覆い隠している邪魔者を排除するため、「狙う」「記録」を見つけるための「仮説」が絶対に必要……。それが、宇佐美さんの方法論であり、私が宇佐美さんから学んだ最も価値ある教えだった。
「スコアカードは宝の山」
宇佐美さんは、そんな言葉も口癖のように繰り返していた。
ふつうの人が見れば、ただ記号や数字が羅列されただけの1枚の紙切れ。多くの野球関係者にとっても、ただの試合結果にすぎないスコアカードから、宇佐美さんは素晴らしい「物語」を見つけ出し、紡ぎ出した。それは、考古学者の遺跡発掘作業にも似ていた。
たとえば、宇佐美さんは、19歳のときに読んだ新聞の小さなコラムを記憶していた。それは次ような内容のものだった。
「昭和27年6月15日。大阪球場。巨人のエース別所毅彦は、松竹を相手に9回2死まで一人の走者も出さなかった。が、代打神崎安隆に遊撃内野安打を打たれ、25年の藤本英雄(巨人)以来2人目となる完全試合の大記録を逃した……」
宇佐美さんの心に神崎という名前がひっかかった。それは聞いたことがない名前だった。4年後の昭和31年、パ・リーグ公式記録員となった彼は、神崎の記録を調べた。大投手の別所の偉業を目前で阻止した無名選手とはどんなプレイヤーだったのか? そんなことをする無名選手が、おもしろくないはずはない……。
当時は、選手の生涯記録(ライフタイム・レコード)がまとめられていなかったので、宇佐美さんは、スコアカードを一枚一枚丹念に調べあげた。ところが神崎の出場した試合が、なかなか見つからない。
プロ入り1年目の昭和26年に1試合。別所からヒットを打った27年は18試合。28年は出場ゼロ。29年には広島に移籍。そこで2試合出場しただけで引退した神崎は、プロ野球選手としての生涯を、ほとんどブルペン捕手として過ごしたプレイヤーだったのだ。
そして彼の打ったヒットは、なんと別所の完全試合を阻止した1本だけだったのだ。が、物語は、これで終わらなかった。
しばらくして宇佐美さんは神崎の名前と再会する。それは、サヨナラゲームの記録を調べているときのことだった。昭和29年5月27日の国鉄対広島戦のスコアカードを見ていて、宇佐美さんは思わず吹き出したという。それは信じられないミスが導き出したハチャメチャというほかないサヨナラゲームだった。
1点差のビハインドを追った9回裏、国鉄の攻撃は1死満塁。そこでバッターは三塁ゴロを打ち、打球は5(三塁手)―2(捕手)―3(一塁手)と転送され、併殺でゲームセット。ふつうならそうなるところが、キャッチャーがホームプレートを踏んでおらず、三塁走者が生還。
そのうえそのキャッチャーが一塁へ悪送球したため、二塁走者までホームイン。勝利をほぼ確定していた広島は、キャッチャーのダブルエラーによって、一瞬のうちに逆転サヨナラ負けを喫してしまったのだ。
このときのキャッチャーが神崎であり、これが彼にとって最後の試合の最後のプレイとなったのだった。
生涯たった1本のヒット(それも残された記録と情報によれば、2度セーフティバントを失敗したあとのボテボテのショートゴロが、前夜来の雨で柔らかくなっていたグラウンドのおかげでヒットになったもの)によって別所の大偉業を阻止した神崎は、その反動とでもいうべき悲惨な末路を迎えたのだった。
その他、宇佐美徹也さんが、掘り起こし、見つけ出し、発見した「記録」の数々は、珠玉の輝きを放つものばかりだった。1枚のスコアカードに残された記録から、野球というスポーツのおもしろさが浮かびあがり、その野球というすばらしいスポーツと格闘する男たちも輝きを増す。ひとつの記録から、野球の世界が縦横に広がる。それが、宇佐美流の記録解析のやり方だった。
宇佐美徹也さん、ほんとうにありがとうございました。静かにお休みください。合掌。 |