新型コロナのワクチン接種が遅れ気味で、東京五輪パラリンピック開催の不安が拭えない今、オリンピックについて考え直してみたい。
最初のきっかけは戦争。プロシア(現ドイツ)がフランスを叩きのめした普仏戦争(1870〜71)の結果、フランス国内には(とりわけパリ市内には)傷痍軍人が溢れ、プロシアへの復讐の声が高まった。
そんななか、イギリスへの留学経験からラグビーを初めとするスポーツに興味を持ったピエール・ド・クーベルタン男爵は、戦争の敗者が復讐を考える限り、戦争に終わりはないと考え、スポーツによる友好を実現する社会を広めれば平和な世界を構築できると考えた。
折しも古代ギリシアの遺跡の発掘が進み、オリンピアの祭典競技が行われる期間中は、あらゆる戦争が停止されたという事実が発見される。
そこでクーベルタンは古代ギリシアの平和の祭典を復活させ、報復の連鎖としての戦争に終止符を打ち、世界平和を実現するべく始めたのが近代オリンピックだった。
残念ながら世界平和はまだまだ程遠く、オリンピック休戦(大会期間の休戦)も過去に実現したのは98年長野冬季五輪や00年シドニー五輪など、数回だけ。
とはいえ、理想論としての「オリンピックは平和の祭典」というフレーズは、多くの人々に知れ渡っている。が、オリンピックには知られていないことも多い。
たとえばクーベルタンは、オリンピックの理念を古代オリンピアに求めたが、最初の第1回大会を必ずしもギリシア(アテネ)で行う必要があるとは思わず、彼の祖国のフランス(パリ)で行いたかったらしい。
が、オリンピックという言葉を使うなら、それはギリシアで行うべきだと主張するするギリシア出身の大富豪(船舶王)が現れ、多額の寄付とともに大会をアテネに引き寄せた。
第2回大会はクーベルタンの希望通りにパリで開催できたが、万国博覧会に力を入れたフランス政府の協力を得られず、オリンピックは半年間(5〜10月)の万博期間中に万博の余興として五月雨式に行われた。
そしてアメリカのシカゴで行われる予定だった第3回大会は、セオドア・ルーズベルト大統領の鶴の一声でルイジアナ州獲得百年記念として、またしても万博と一緒に7〜10月の長期開催となったのだった。
そのように経済と政治に翻弄されながら生まれ、発展し始めた近代オリンピックは、創始者のクーベルタンが女性のスポーツに反対したため、女性の参加が拡大しなかったり、古代ギリシアのオリンピアの祭典の優勝者にはオリーブの冠しか与えられなかったという虚構が広がったため(本当は出身の都市国家から多くの金品を得ていた)、長い間アマチュアリズム(身体を用いて金品を受け取る者=プロスポーツマンや肉体労働者は大会に参加できない)という差別思想に縛られたりもした。
つまり近代オリンピックは、誕生時から経済と政治に翻弄され、反戦平和の理想は実現せず、間違った考えも数多く存在し、戻るべき「原点」も存在しないまま徐々に巨大化し、ひとつの光り輝く頂点を迎える。
それは、まったく皮肉なことに1936年のナチス・ヒトラーが主催したベルリン五輪大会だった。
オリンピックという巨大イベントは、号令一下で国民を動かすことのできる独裁国家ときわめて親和性が強いと言える。
ならば、新型コロナによる国民の安全性を考え、無理はしないで開催中止の決断を下すことのできる民主国家を、私は支持したい。
|