ロシア陸上競技界の「国家ぐるみ」とも言えるドーピング事件が明らかになった……。
その話題に触れる前に、小生の経験したドーピングにまつわるひとつのエピソードを紹介したい。それは何年か前、日本を代表する男子3人女子2人の世界的アスリートと、シンポジウムに臨んだときのことだった。
5人とも既に現役選手生活を引退し、既に指導的立場に立っていたが、控室での打合せのとき、司会を務めることになった小生は、彼らに向かって、次のような質問をした。
もしも副作用がまったくなく、検査でも絶対に発覚せず、スポーツで力を発揮できるような薬が開発されたなら、使いますか?
答えは全員同じ。5人ともが口を揃え、笑顔で「絶対に使う」と答えたのだった。
私は、この回答に納得した。
世界を舞台に活躍する一流のスポーツマンなら、金銭欲とか名誉欲といった二次的モチベーションを満足させる以前に、とにかく何が何でも勝ちたいという一次的モチベーションに、強烈に動かされているもので、苦しい日々の練習にプラスして、何らかの「助け」を得たいと思うのは当然だろう。
そのうえ、ドーピングという問題には、たとえば、次のような微妙な課題も存在する。
血液中の酸素を運ぶ赤血球を増やすために、高地トレーニングを行ったり、低気圧(低酸素)室で睡眠をとる、といった行為は許されている。が、同じ効果を高める薬物(EPO=エリスロポエチン=人体にも存在する赤血球産生増加ホルモン)を過剰に摂取することは、ドーピングとして禁じられている。しかし、この「差異」を、リーズナブルに、あるいは道徳的に、説明することは難しい(クスリは、努力を伴わないからダメということか?低酸素室での睡眠に努力が伴うというのか?)。
そんなところへ、副作用もなく、摂取した痕跡も残らず、同等の赤血球を増加させる働きをしてくれる薬が登場したら、苦しい練習に加えて、普通の人が常々摂取してるビタミン剤と同じ感覚で、一流選手が使用したいと思うのは当然だろう。
とはいえ、少々誤解を生じかねないこの質問を、私は本番で口にしなかった。が、会場からの質疑応答となったとき、まったく同じ質問を口にした聴衆が出たのだ。
しかも、「薬を使いたいと思う人は手を挙げて下さい」と付け加えて。すると5人のうちの1人だけが勢いよく手をあげ、他の4人は目を伏せた。
シンポジウムのあと、手をあげた元アスリートは、「みんな、ずるいなあ」と笑顔で他の4人を非難し、非難された4人も笑顔で「ごめんごめん」と謝り、私も笑った。
スポーツ選手のホンネとタテマエ……。それを笑って済ますことができただけ、日本のスポーツ界は(まだ?)健全と言えるだろう。
それに対して、ロシアで起きた「国家ぐるみ」のドーピング事件は、このような世界的一流選手の「勝ちたい」というホンネを利用する勢力が存在した。それこそが、最大の問題というべきだ。
発端は、昨年ロシアの女子陸上選手が、ドイツのテレビ局に筋肉増強剤や興奮剤などの薬物を摂取させられていることを告発したことだった。それを受けてWADA(世界反ドーピング機構)がICPO(国際刑事警察機構)と手を組み、約1年間に及ぶ調査の結果、ロンドン五輪女子800m金メダルのサビノワ選手など、多くの選手がロシア陸上競技連盟の担当医師の「指導」のもとに禁止薬物を摂取していたことが判明。
さらにソ連時代の秘密警察KGB(国家保安委員会)の流れをくむFSB(ロシア連邦保安庁)や、スポーツ省の関係者までが、ドーピング及びその隠蔽工作に関与していた事実が明らかになり、サビノワ選手など何人かの選手のメダルは剥奪。記録は抹消。
ロシア陸上競技連盟に所属する選手の国際大会への出場禁止が勧告され、現状のままではロシアの陸上選手は、来年のリオ五輪に一人も出場できなくなる可能性まで出てきた。
そもそもドーピングは、現代のスポーツ界にとって、最も厄介な問題とも言える。
いまから約半世紀前、1964年の東京オリンピックの様子を映画にした市川崑監督の『東京オリンピック』を見れば明らかだが、スポーツ選手の身体は50年間のうちに、大きく「発達(変化?変身?)」した。
60年代のアスリートは、誰もが我々と同じ普通の体つきを、頑張って鍛えたと思える程度の筋肉で、特に女性のアスリートは、普通のオバサンやオネエサンの体つきで、スポーツに挑んでいた。
ところが現在のスポーツ選手の多くは、まさに「超人的」と言うほかない見事な体つき(筋肉)をしている。それは筋力トレーニングの発達やサプリメントの開発などの効果だけでは絶対に説明がつかない(としか思えない)。
かつて、旧社会主義国の東欧(特に東ドイツ)やソ連では、「国威発揚」としてオリンピックで金メダルを数多く獲得するため、国を挙げてドーピングと取り組み、筋肉増強剤(アナボリック・ステロイド)や、先に紹介したエリスロポエチンを多用。さらに、それらを隠蔽する薬も開発したうえ、女子体操選手には成長抑制ホルモンを摂取させ、高度な技に挑戦しやすい小さな身体を維持させたりもした。
そんな「国家がらみ」の不正によって68年のメキシコ大会で5位(金9銀9銅7)だった東独のメダル獲得数は、次の72年ミュンヘン大会で激増(3位=金20銀23銅23)。76年モントリオール大会(2位=金40銀25銅25)、80年モスクワ大会(2位=金47銀37銅42)、84年ロサンゼルス大会=不出場。88年ソウル大会=2位(金37・銀35銅30)と、ベルリンの壁崩壊以前の東独は、圧倒的なメダル獲得数を誇った。
ロシアの前身であるソビエト連邦も、同時期メダル獲得数を増加させ、80年自国開催モスクワでの1位(金80銀69銅46)は、西側諸国が出場しなかったから当然にしても、88年ソウルでも1位(金55銀31銅46)を記録。
ところがロシアの最近の成績は、04年アテネも08年北京も、中国・アメリカの後塵を拝して3位。12年ロンドン大会では、そこへイギリスが割って入って4位に落ち、プーチン大統領みずから、「国威発揚」のため好成績をあげるよう(1位の座を奪回するよう?)命令していた、と断言する人もいる。
メダル数が「国威発揚」につながり「国家の威信」を示す……などというのは、独裁者や独裁国家のナンセンスな考えと言える。かつてヒトラー率いるナチス・ドイツは、1936年ベルリン五輪で、2位アメリカ(金24銀20銅12)を上回る1位のメダル獲得数(金33銀26銅30)を記録した。そのことを、今日、何人の人が記憶してるだろう? たとえ知っていたとしても、それをナチス・ドイツの栄光であると、国家に対する「評価」に結びつける人は皆無だろう。
ナチス・ドイツが、スポーツでドーピングを国家的に行っていたという証拠はない。が、ドーピングを行えば(そして発覚しなければ)勝負に勝てる(メダルが獲れる)ことは、かつての東独やソ連が証明した。そこで旧社会主義国の選手だけでなく、資本主義諸国の選手たちも、ドーピングに手をつけた。
88年ソウル五輪男子100mでぶっちぎりの優勝を果たしながらドーピングが発覚し、選手生命を絶たれたベン・ジョンソン(ジャマイカ出身のカナダ人)のことは誰もが知ってるだろう。同じくソウル五輪で女子100m、200m、400mリレーで金メダルを獲得したアメリカのフローレンス・ジョイナーも、男性化した筋肉質の体型と38歳の年齢での早逝は、薬物のせいだと言われている。
また、日本ではあまり知られてないが、同時期に短距離選手として大活躍し、88年ソウルでジョンソンの驚異的な走りを横目で見ながら走って繰りあげ1位となり、84年ロス、92年バルセロナ、96年アトランタを合わせた五輪4大会で9個の金メダルを獲得したカール・ルイスも、一時期ドーピング検査で陽性反応が出て、危うく出場停止処分を喰らうところだったという(本人は、風邪薬などに含まれている禁止薬物のエフェドリン=交感神経興奮剤を、不用意に摂取しただけと弁明している)。
その他、シドニー五輪女子短距離で金メダル3個銅メダル2個の活躍をしたマリオン・ジョーンズも、禁止薬物の使用が発覚してメダルをすべて返上するなど、「国」との関わりとは無関係に、ドーピングに手を出す選手は後を絶たない。
それは冒頭に示したように、何としてでも勝ちたい! と思うアスリートの純粋な意識に根ざしているものとも言える。が、資本主義諸国では旧社会主義諸国や独裁者(的存在)の支配する国家の「国威発揚」とは異なり、勝利の結果としての選手や指導者の多大な金銭の獲得が伴う場合があり、指導者(コーチ)が選手に対してドーピングを勧めるケースも少なくないという。
また、アメリカのドキュメンタリー映画『ステロイド帝国』では、五輪選手だけでなく、メジャーリーグの野球選手やアメリカン・フットボールの選手たちのほか、プロレスラー、ボディビルダー、ハリウッドの映画俳優アーノルド・シュワルツネッガーやシルヴェスター・スタローンなどにも蔓延している薬物(アナボリック・ステロイド)の実態が描かれ、アメリカ人男性に広がっている「マッチョ信仰」は、アスリートだけでなく学生や一般社会人にまで広がっていることを示している。
ひょっとして、ロシアで『国家ぐるみ』のドーピングに手を染めた医者、選手、その他の関係者たちも、IOCやWADAが禁止している薬物の多くはアメリカ製であり、心の底では「誰もがやっている事じゃないか……」と呟いているかもしれない。
では、スポーツ界のドーピングは、はたして根絶することができるのか?
一部には、どうせ近い将来、遺伝子ドーピング(人間の遺伝子操作による運動能力の飛躍的発達)にまで至るのだから、あらゆるドーピングを解禁しては……などと暴論を口にする人物もいる。が、一流アスリートへのドーピング解禁は、彼らを目指す青少年への薬物の蔓延に繋がり、大人以上の副作用の危険性に加えて、世界のスポーツ界全体のモラル・ハザードを引き起こしかねない。
また、勝利至上主義がすべての元凶と主張する人もいる。が、冒頭に書いたように、何としてでも勝ちたい! と思うのはアスリートの本能でもあり、勝利を否定したり、勝利以外の価値を持ち出すのは、個人レベルでは可能だろうが、スポーツ界全体としては難しいだろう。
ならば……スポーツにおける勝利に絶対的価値を付与するのではなく、相対化する工夫――たとえば、オリンピックとパラリンピックを統合させること、を考えてみてはどうか。
たとえば、健常者の100m走のあとに、片足義足者による100m走を行う。さらに両足義足者、車椅子、視覚障害者……などの競技を行う。臓器移植の拒否反応を抑えるために、ステロイドが必需薬である臓器移植者の100m走も加えるべきだろう(現在、心臓移植をした短距離ランナーは100m10秒を切るスピードで走っている)。
そのように様々な身体の持ち主たちが100mに限らず、また陸上競技だけでなく、あらゆるスポーツのあらゆる競技種目に、同じ土俵で登場すれば、様々な人々の様々な価値観でスポーツを見る(評価する)ことができ、必ずしも健常者の(いちばん速い?)ランナーが一番素晴らしいとは限らない状況が生み出されるのではないか? そして、健常者のアスリートも、指導者や周囲の人間も、ドーピングを行う愚に気づくのではないだろうか……などと考えるのは夢物語だろうか?
より速く、より高く、より強く……というのはオリンピックのモットー(標語)と言われている。が、60年ローマ五輪のボート競技エイトの金メダリストでもあるドイツの哲学者ハンス・レンクは、その三つに、より美しく、より人間らしく……という二つを加えて、現代スポーツのモットーとした。
はたして、より速く、より高く、より強く……だけでなく、より美しく、より人間らしい……と言えるのは、どんなスポーツのどんな勝者なのか?
遺伝子治療(遺伝子ドーピング)や人工知能(AI)が現実化してきた社会となった現在、未来の人類が改造人間(サイボーグ)になるのか、人造人間(アンドロイド)になるのかはわからない。が、現代のスポーツは人間の多様さを規準に、たった一つの価値観だけで評価するのではない世界を築かなければならないのではないはずだ。 |