「手段」だったはずのものが、いつの間にか「目的」になってしまう――というのは往々にして起こりうることだ。
4年後に迫った東京五輪にも、そんな危険性が感じられる。
最初の出発点は貧困な日本のスポーツ状況にあった。
欧米に較べて日本はスポーツを行うおとな(社会人)の人口が少なく、スポーツが日常生活に溶け込んでいない。つまりスポーツが日本社会のなかに、文化として定着していない。この状況を改善すれば社会全体が明るく活性化し、経済的にもプラスになり、医療費の減額にもつながるはずだ。
それには、まずスポーツ基本法を作る必要がある。
1964年の東京五輪をきっかけに生まれたスポーツ振興法は、プロスポーツを排除し、障害者スポーツを無視した時代遅れの法律で、それを改正して基本法とし、スポーツ政策の方針を打ち出す。
そしてその方針に添ったスポーツ政策を実施し、スポーツを社会に広げるためには、スポーツ庁の設立が必要となる。
しかし行財政改革が叫ばれるなか、新しく行政機関を設けることは難しい。
そこで、日本(東京)に2度目のオリンピック・パラリンピックを招致する運動を展開し、それに成功すれば、全国民や社会全体のスポーツへの関心も高まり、スポーツ庁設置の必要性も認められ、日本のスポーツ政策も軌道に乗る……。
東京オリンピック・パラリンピックは、こんな流れのなかで開催が決まったのであり、つまり2020年のオリンピックやパラリンピックは、スポーツで日本の社会を豊かにするための「手段」であり、その大会の開催を成功させることや、メダルをたくさん獲得すること自体が「目的」ではないのだ。
以上のことは遠藤利明五輪担当大臣も、シンポジウムやテレビ出演のときに口にされ、今ではスポーツ基本法も生まれ、スポーツ庁も設置され、オリンピック・パラリンピックの招致にも成功した。
しかし、五輪が近づけば、大会の成功裏の開催や、メダル獲得による大会の盛りあがりばかりに目が向き、スポーツによる豊かな社会づくりという「本来の目的」が、忘れられかねない。
2016年の新年、リオ五輪の年が幕を開け、東京五輪まで4年と迫った現在、組織委員会の皆さんは、どうか「本来の目的」に添った、素晴らしいレガシー(遺産)の残る大会の開催を目指してほしいものだ。
(付記:森喜朗組織委員会会長は、このような五輪開催の“目的”をわかっているのだろうか?) |