(2015年の)10月3〜4日の2日間、宮城県石巻市へ行き、武道フェスティバルに参加してきた。
これは、3・11東日本大震災で大きな被害を受けた同市が、柔道、剣道、空手道、弓道、合気道、薙刀……などの武道を通じて子供たちの元気を取り戻し、復興につなげようと、その年(2011年)の秋から始められた催しで、私は第1回から参加させていただき、「武道とは何か?」といったテーマで講演を繰り返してきた。
武道とは武術から発展した日本の格闘技だが、剣術や柔術などの武術はすべて、戦場での闘い(戦闘)に勝つための殺し合いの格闘術にほかならない。
そんな格闘術を、技術を競う試合にしたものが武道だが、レスリングやボクシング、それにフェンシングなどの戦闘技術をゲーム化したスポーツと同様の変化経路を辿ったことから、「武術=戦闘技術」「武道=スポーツ」「武道精神=スポーツマンシップ」と言うことができる。
さらに、スポーツが古代ギリシアと近代イギリスで生まれ、武道が明治時代の近代日本で生まれたことを考えると、両者の背景には民主主義社会の成立という共通点があることに気づく。
古代ギリシアも近代イギリスも力(武力)のある者が支配者(王)の座に就くのでなく、選挙や話し合い(議会)で社会のリーダーを決める民主制社会を生み、発展させた。
近代日本も、明治天皇が五ヶ条の御誓文で、「万機公論に決すべし」と宣言し、国会(民選議員)の開設を約束。そのように武力を否定し、話し合いの社会(民主主義文化国家)が生まれると、戦闘行為(暴力行為)もゲーム化し、相手を殺し叩きのめすのではなく、技術を競い合う「スポーツ=武道」による「ゲーム=試合」が生まれる。
スポーツの誕生は近代産業革命によって、多くの人々に金銭的余裕と余暇が生まれたから……との説がある。が、それだけでは紀元前ギリシアの都市国家で身体文化が発展した説明がつかない。
また、莫大なGDPを誇った唐、元、明などの中華帝国、モンゴル帝国、イスラム帝国、ルネサンス期のフィレンツェやヴェネツィアなどで、スポーツが生まれなかった理由も説明がつかない。
民主主義という暴力を否定する思想が生まれ、民主制という社会が生まれて初めて、スポーツや武道が生まれるのであり、スポーツや武道には、「殺すな」「傷つけるな」というメッセージが込められているのだ。
たとえば柔道は、明治時代に嘉納治五郎が柔術をゲーム化して創ったものだ。柔術の大外刈りは敵の脹ら脛の下部にある急所を踵で蹴り、敵を失神させて後頭部から叩き落とす殺人技だったが、嘉納治五郎は踵での蹴りを禁止。相手の脚を払って背中から倒す武道の技へと変えたのだった。
今年も被災地石巻では、柔道や剣道や空手道に励む子供たちが、オリンピックの金メダリストや世界選手権の優勝者から指導を受け、元気に武道と取り組んでいた。
石巻には1964年東京五輪で使われた国立競技場の聖火台も設置されている。2020年東京オリンピック・パラリンピックでは、オリンピアで採火された聖火がアテネから仙台空港へ到着。この聖火台にまず点火され、被災地から全国を巡り、東京へ運ぶ計画もある。
そのような被災地でのスポーツを通した復興こそ、2020年大会の成功に繋がるに違いない。 |