日本高等学校野球連盟(高野連)が、来年春季大会から「延長戦タイブレーク方式」を採用することになった。
何と中途半端な決定か! なぜ、夏の大会は採用しないのだ! 何と無責任な決定か! 責任者出てこーい! と叫びたい心境だ。
高野連の考えているタイブレークでは、延長の十回以降は両チームとも無死満塁から試合を始めるという。それによって、得点を入りやすくし、試合が早く終わるよう導き、大会運営を円滑にすると同時に、選手の健康管理、何より投手の「投げすぎ」を少しでも抑えるのが狙いだ。
高校生投手が「投げすぎ」で肩や肘を故障する問題は、私がスポーツライターとして働き始めた40年前から多くの人が指摘していた。その問題を高野連がようやく取りあげたのは、遅きに失したとはいえ、評価すべきことと言えるかもしれない。が、こんな中途半端な「解決策」では、解決にならないばかりか、問題の本質を見誤るだろう。
そもそも高校野球大会を日本で最も蒸し暑い真夏の関西地方の甲子園球場で開催する必要があるのか? 高校生だから夏休みに開催するというのなら、スポーツを行うのに最も適した北海道でやるべきだろう。
それに現在のスケジュールでは予選の期間がテストの時期と重なる学校もある。勉学を無視して野球を優先する日程など論外。予選も夏休みに入って行い、本大会は8月中旬から下旬にかけて道東地方(網走や釧路や根室)で開けばいい。
もちろん移動の交通費の負担が大きくなるが、それは高野連や主催社や後援者が補助金を出せば済む。高校生の健康と勉学を最優先に考えれば、そのくらいの費用を捻出するのは主催社の義務である。
高校野球の試合内容にも疑問が多々ある。
試合で球児たちは監督のサインを頻繁にうかがう。監督も高校生の指導者の一員なら、どうして「自分の頭で考えろ」と指導しないのか? イニング、点差、アウトカウント、走者の出塁状況、相手チームの調子…等々を考慮して、どんな作戦を採るべきか、それを高校生自身が考えてこそ教育的な高校野球と言えるはずだ。
だから監督は試合のベンチに入らず、サインを出すことは禁止し、ネット裏で観戦する。試合のすべてを高校生(と、大人の審判と、主催社の健康管理者)に任せれば、キャプテンを中心に高校球児たちは知恵を出し合い、作戦を考えるだろう。
球児たちが自分たちで考え、スポーツを通した判断力(スポーツインテリジェンス)を身に付けてこそ、21世紀の社会が求める人材が育つ。監督のサイン(命令)に従順に従う高度成長社会のモーレツサラリーマンのような人材は、現在では時代錯誤の過去の遺物でしかない。
しかし高校生に試合のすべてを任せると、なかには目前の勝利を得たい一心からエースを連投させ、エースも球友の期待に応えようと現在以上に肩や肘を酷使する結果を招くことも考えられる。
そのときこそ指導者たる大人たちの出番だ。高校生がムチャをしないようなルール(例えば1試合の投球数は50球、連投は禁止…等々)を作ってやればいいのだ。
球数制限をすれば、好投手を数多くそろえる「野球名門校」と呼ばれている私立校が有利になり、公立高校等が不利になる、との声もある。が、爽やかな夏の北海道で、高校生たちが自分達で考えた野球をやるのである。そこには高校生たちの少々稚拙なプレーを覆い隠すギラギラと輝く太陽はない。じっとしていても噴き出て流れ出してくるような汗もない。現在のような「汗と涙の熱狂」も「名監督の名采配」も消え、国民的な注目度は下がり、やがて野球で名を売る「野球名門校」とそれ以外の高校といった区別も消滅するだろうし、そうなることを目指すべきだ。
現在、高野連が高校生投手の「投げすぎ」を「悪」と気づきながら「タイブレーク」などという曖昧な妥協策(しかも春の大会だけで、夏の大会は未定)しか出せないのは、大人たち(監督や高野連やマスコミ)が高校生以上に高校野球を楽しんでいるからだ。
大人たちが試合を楽しみ、試合に勝つことを競い合い、大会を盛りあげたい…と、大人たちが願っているから問題の本質――高校生の健康や勉学――という一番優先すべき大事なものが見えなくなっているのだ。
夏の全国高校野球は、大正4年に幕を開け、すぐに全国的な大人気となった。娯楽の少なかった時代に、球児たちの活躍を応援するのは最高の娯楽だった。しかし現在、高校生に娯楽の主役を演じさせることこそ時代錯誤でしかない。そして大人たちが、それに気付くことこそ、高校生の健康を守る第一歩のはずだ。
ついでに書き加えておくならば、朝日新聞や毎日新聞といったジャーナリズムを担うべきマスメディアが、高校生のスポーツ大会を主催するのは、法律によって禁止するべきだろう。メディアが、高校生のスポーツを宣伝材料に使うなど言語道断。メディアがスポーツ(特に高校スポーツや大学スポーツ)の主催者となるのは、メディアがジャーナリズムとしてのまっとうな判断ができなくなっている元凶と言っていいだろう。 |